今週のどうでもいいあれこれ(パクリ)
今週、“はてな界隈+α”という極めて狭い世界を騒がせた、例の“コミケ”とか“デモ”とか“アキハバラ”とか“ナンバデンデンタウン”とかがキーワードとなる騒動についてです(最後の違う)。どうでもいいことなので適当に書きます。
今回の騒動についての“まとめサイト”はこちら!→「ほら。」(ぬるぬる漫談。)これだけ読んでりゃ十分って程度の揉め事です。
ようするにアレですよね?ライブハウスでのバンド同士の対立みたいな。「あいつらオレらの音楽性にケチつけやがった!」とか言ってステージ上に殴り込むみたいな。殴られた方もギター振り回して応戦するみたいな。“パンクVSメタル”みたいな(いつの時代だ)。
え?事態を矮小化するなって?とんでもない、バンド間抗争の方が重大ですよ!でもインディーズ活動も同人活動も大して違わないですよね、とか書くと色んな方面から怒られそうですが。
まあ、“テロ”って言葉に厳密な定義は無いようで、どういった場面で使おうが自由かもしれませんが。小さい出来事にテロの前兆を見いだし騒ぐのも自由かもしれませんが。でも「テロを揉め事に矮小化するな!」って、逆じゃありません?この調子じゃ“テロ”が“揉め事”と同義語になっちゃいますよ?
「となりの家の囲いでテロがおきたってねぇ」
「へぇ」
騒動と関係するデモの実行委員会が過激派と関係あるという話があって、なるほど、確かにそれは物騒だなと思っていたのですが。なんでも主催者の一人の大学の友人が過激派だったということらしくて。
それって「オレの姉貴の旦那の従兄弟の友人がティモ・コティペルトやねん。」という自慢話と同類ですか?何等親以上ならセーフですか?もしかすると私の親父の元同僚のお向かいさんも過激派かもしれないので深刻な問題です!誰か教えて!!
私の古い付き合いの友人に、今刑事をやってる奴がいます。まぁ彼が刑事になってからはお互い忙しく全然会ってないのですが、彼が警官だった頃、よく彼のお仕事の話を聞いていました(問題ない範囲で、さすがにガードは厳しいですし)。そしたら、寝たきりの奥さんを刺し殺して心中しようとしたおじいさんの話とか、酔っぱらったホームレスどうしのケンカで勢い余って殺してしまった話とか、聞いているだけで暗澹たる気分になってしまうような“揉め事”がしょっちゅうあるんですね。
こういうのは比べてどうこう言うものではありませんが、それでも「あなたがたの平和分を他の人にも分けてあげて!」と言いたくなってしまいます。
そりゃ当事者が真剣になるのは当然です。取られた写真が何に使われるか考えると、なかなか怖いものがあるでしょう。でも、他人にとっちゃよくある揉め事にすぎないんですよね。
私は昔自動車とぶつかったことがあります。私にとっては生死を別つ問題でしたが、他人から見ればどこでもおこっているような事故にすぎません。しかし私が「あれは私の命を狙ったテロだ!」と言い出したらどう思うでしょう?「打ち所が悪かったんかな?」で終わるでしょうね。
“勝手に写真を撮ろうとしたこと”と揉め事をおこした側の責任者がちゃんと批判されれればそれで良いんじゃないでしょうかね。
とはいえ、もう収束にむかっているようでお祭りも終わりですね!
ニセはてなスターTシャツ作った!
「はてなスターTシャツ欲しい!」というキャンペーンがあったそうなのですが、気づかずに締め切りが過ぎていました。なので、自分で作ってみました。
本物は黒地に黄色のプリントですが、「他人と同じじゃ嫌!」というガキっぽい理由から白地に黒でプリントしてみました。黒星とはなんとも縁起が悪いです。綴りが微妙に違うとか気にしないで下さい。
ちなみに、「ニセはてなスターTシャツ欲しい!」とブログに書いても、あなたの人生にこれっぽっちも影響を及ぼしませんよ!
プリントTシャツの展示とか
仕事の合間に作った(決してサボっているわけでは!)プリントTシャツなんかを載っけてみます。
グリーンイグアナには赤い薔薇がよく似合います。ロゴには特に意味はありません。
XSサイズのTシャツのバックに横幅ほぼ一杯の大きさ。
ブラックメタルバンドのライブに着ていけそうなものというコンセプトだったのですが…これじゃ単なるサタニストですがな。悪魔の絵をメインにするのではなく、もうちょっと素材的に扱うべきでした。失敗。
シド・ヴィシャスの良い画像データが手に入ったので作ってみました。できるだけシンプルにということで全くひねらずにズガッと(?)。
プリント後に首回り・袖口・裾を鋏でジャキジャキと切ってみました。しかし首回りが思ったよりも広く空いてしまい、セクシーに、じゃなくてキモくなってしまいました。
「爬虫・両生類ビジュアルガイド トカゲ〈1〉アガマ科&イグアナ科」の感想
爬虫・両生類ビジュアルガイド トカゲ〈1〉アガマ科&イグアナ科
- 作者: 海老沼剛,川添宣広
- 出版社/メーカー: 誠文堂新光社
- 発売日: 2004/08
- メディア: 単行本
- クリック: 17回
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爬虫類の中でもアガマ科・イグアナ科のみに絞っているので、普通の図鑑などではまず見れないほどの様々な種類が載っています。
特筆すべきは写真の多さとその質。一つの種類でも複数の亜種の写真を載せるほどの丁寧さ。その上一つ一つの写真が鮮明で鮮やかです。とにかく、ぼー眺めているだけでも涎がたれそうです(違う意味に聞こえる)。タテガミヨウガントカゲのシルエット・色・質感の美しさといったらもう!
後半には各種類ごとの飼育方法なども載っており、至り尽くせりといった感じです。私は今爬虫類を飼う余裕はありませんが。
値段は少々張りますがそれだけの価値がある本だと思います。
それはそれとして、爬虫類は「気持ち悪い」として嫌われやすいですが、爬虫類好きにとってはその「気持ち悪い」がそのまま直「美しい」と反転するわけですね。こういった「美しい」トカゲ達を見ていると、「気持ち悪い」とか「美しい」といったものがいかに単なる主観にすぎないものであるかを思い知らされます。
死刑と終身刑
死刑反対の私が書くべきではないことかもしれませんが…。
「死刑廃止には賛成だが、変わりに終身刑を求める」という意見をよく目にします。しかし、これにはどうしても疑問を感じます。
死刑を廃止し終身刑を置くという選択は、“ある視点”から見れば大きな変化と言えますが、“別の視点”から見ればほとんど変化のないものです。
“ある視点”とは、受刑者の視点。受刑者にとっては、早期の死と死ぬまでの懲役とでは天と地の差があると思います(といっても人によっては(というか私は)終身刑よりも死刑を望むでしょうが)。
“別の視点”とは、受刑者以外の、この日本の社会に生きる私達の視点。死刑も終身刑も凶悪犯罪者を永遠に社会から抹殺するという点ではほとんど同じです。
つまり、「死刑の変わりに終身刑を求める」という意見は、旧来と変わらず犯罪者を社会から排除することによって(元犯罪者を受け入れるという)リスクをほとんど背負わず、しかし死刑という殺人の片棒は担がないという“意識を得る”ことを意味するのではないでしょうか。
以下、“社会が犯罪者をどう受け入れるか”という視点のみで書いていきます。
結局のところ、死刑賛成派も「死刑の変わりに終身刑」派も、犯罪者を社会から排除したいという点では同じということ。死刑を「犯罪者を社会の中でどう扱うか」という視点で見れば、「死刑の変わりに終身刑」という考え方は単なる“自己満足”にすぎないのではないか、という疑問を感じます。
もっとも、「犯罪者は社会から排除されて当然」というのであれば矛盾はないのですが。
日本では毎年約1000件の殺人事件がおきているということです。そして、その内のほとんどが“衝動的な犯行”だということです。いわゆる「カッとなってやった」というやつですね。多くの人は「自分は犯罪なんて犯さない」と考えていると思いますが、殺人事件をおこした人間のほとんども、きっとそのように考えていたのでしょう。
殺人は許されないことだというのはもちろんです。しかし、「犯罪者は社会から排除されて当然」という考え方は、ある意味で“人間を信頼しすぎている”と言えるのではないでしょうか。人間はちょっとしたことで理性を失い他人を殺せてしまう存在であることも事実。
誰もが殺人者になりうる中で求められるのは、一度の過ちで全てが終わりになる社会ではなく、過ちを自覚させ、罪を償わせ、更正させる社会、ではないかと考えます。
こういった考えには「甘い」という声が投げかけられるでしょう。実際“犯罪者を更正させ受け入れる社会”はそのまま“元犯罪者を受け入れる”というリスクを背負う社会でもあります。しかしそのリスクは受け入れなければならないものであるとも考えます。
「(元)犯罪者を社会から排除する」という考えは、ようするに「危険な要素を排除する」ということであり、それは(元)犯罪者に限らず様々な“危険があると認定された存在”を排除するということではないでしょうか。危険を少しでも孕んだ要素を排除するという社会は果たし成り立つのか。もしくは人間が幸福に生きることのできる社会なのか。
極端な話、私達は誰もが将来犯罪者になりうる存在、“犯罪者予備軍”です。これは私達自身が社会にどう受け入れられるかという問題でもあると私は思います。
「DARKER THAN BLACK -黒の契約者-」の感想
最近数ヶ月またぎで肩の凝る内容ばかりだったので、久しぶりに気楽なことを。
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DARKER THAN BLACK-黒の契約者- 1 (通常版) [DVD]
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このアニメのことは黒絵(BlackSun)さんのところで知りました。私は普段あまりアニメを見ないのでアニメ関連の情報にも疎く、こういったマイナーな作品を知る機会も少ないので有り難い限りです。
超能力ものと言えば、漫画なら「X-MEN」や「幻魔大戦」(古!)や「超人ロック」(こっちは現役)、ゲームなら「サイキックフォース」や「エスプレイド」といった派手派手なバトルを描いたものを連想しますが、「DARKER」は全く逆の、非常に地味な内容になっています。
地味というと語弊があるかもしれませんが、一つの事件を発端から経過、結末まで2話かけて丹念に描き、結果として戦闘シーンはごく短時間となっており、それが地味という印象に繋がってしまうのだと思います。
アニメ作品はハッタリの利いたもの、ケレン味の強いものに人気が出る傾向があると思われるため損している気がしますが、これだけドラマをしっかり描いた作品は今時珍しいのではないかというのが、今現在「DARKER」と「遊戯王GX」しかアニメを見ていない私の適当な感想です。
一見、暗く無機質な印象を受ける作品ですが、非常に情緒豊かというのも特徴です。
東京を舞台としながら、鉄塔やビルの屋上、ガード下、寂れたタバコ屋など都会でも哀愁や淋しさを感じる場面を多様したり、都心から少し離れた古いアパートや廃校が描かれたりと、背景からして感情を揺り動かすものがあります。
また、“感情を持たない”とされる“契約者(特殊な能力を持った者)”(これは正確な設定ではない模様)が時折見せる激しい感情が、静と動のコントラストからより強く情緒感じさせます。この辺はハッタリで魅せることをしない今作ならではだと思います。
登場人物の描写もとても私好み。
見た目的には、主人公の“黒”の格好が冬場の私の格好と同じ(黒コート黒パンツ黒ブーツ)なのがイタいながらも感覚的にピッタリ。というのはまあ置いておいて、昼間は穏和な中国人留学生、夜は冷酷なエージェントという二面性も、時代劇の「必殺」シリーズなどが好きな方はには堪らないものがあるでしょう。
登場人物の配置も上手いですね。主人公チームの内、美青年の“黒”・美少女の“銀”・猫の“猫”とここまではよくあるパターンですが、もう一人の“黄”がくたびれたオッサンというのが非常にバランスがとれています。この黄は契約者ではなく、むしろ契約者に対して軽蔑とも憎しみともつかない複雑な感情を持っており、主人公達の監視という役目を負っているのですが、一方で黒や銀に対して少しずつ情をよせつつあるのか、彼らの所属する“組織”との板挟みになりつつあるという状況。中年をしっかり描けているというのはそれだけで魅力的です(ちなみに猫も中身はオッサンなので、主人公チームの内半分はオッサン)。
そして黄に限らず二十代後半〜熟年が良く描けています。13話・14話「銀色の夜、心は水面に揺れることなく…」で登場した二人の契約者(チンピラ風の男と落ちぶれた元シンガーの女)などは声優の上手さも相まって、2話限りの登場なのがもったいないほど。「最近のアニメは萌えばっかりで…」といった批判をよく耳にしますが、いやいやなかなかどうして、すごいじゃないですか。ちなみに今現在放映中の19話・20話「あさき夢見し、酔いもせず…」は待ちに待った黄が中心のお話し。中年の恋なども描かれ、見逃せない内容です。
そんな中で私がもっとも気に入っている登場人物は、主人公チームとライバル的な関係にある“MI6”のメンバー“エイプリル”。短髪で、白い大きなファーの付いたピンクのコートを着込んだ黒人女性。見た目からして「…たまらんね」(誰か元ネタ分かって)という感じですが、こういったキャラクターが違和感無く、しかし埋もれもせず存在できているこの作品は素晴らしい。
黒絵さんも触れていましたが、キャラクターデザインを手掛けているのは漫画家の岩原裕二さん。代表作は「いばらの王」になるでしょうか。「この人を起用するとはわかってるなぁ」と偉そうに言ってみたくなります。
私が岩原裕二さんに注目し始めたのは、「週刊ファミ通」(その当時はまだ「週刊ファミコン通信」だったかも?(どうでもいい))で小さいカットを描いていた頃。「この人のセンスは良い!」と感じ、その後初単行本となる「クーデルカ」から追っかけています。注目していた人がこうやって広く知られるようになると、とても嬉しいですね。
「DARKER」の話に戻します。
設定で注目したいのが契約者の使う能力。その能力はそれぞれのキャラクターによって全く違い、およそ統一感を感じさせないものですが、面白いのが能力とセットになっている“対価”の存在。
多くの超能力ものの場合、その能力に対する制限は体力とか気力とかいったものであり、RPGで言うところの“MP”のようなものがほとんどですが(もしくは制限がない)、この作品の場合能力を使った後に必ず“対価”を支払わなければならないとされています(ただし主人公は(今のところ)例外とされています)。
その“対価”とは、「指を折る」・「異物を飲み込んで吐き出す」といった痛々しいものから、「小石を綺麗に並べる」・「靴を逆さに置く」といった単にめんどくさいだけのもの、「煙草を吸う」・「酒を飲む」のような嗜好が合えば何の問題もないものまで様々です。ようするに、何かを支払うのではなく、何らかの行為を行うことが“対価”ということらしいです。
この“対価”が何を意味するのか、“対価”を払わなければどうなるのかといったことはまだ不明ですが(「詩を書く」という言葉を理解しそこに意味を見いだす人間にしか価値の無い行為があることはどういうことかとかも)、ドラマの中の良いスパイスとなっていると感じます。
“対価”とか“ゲート”とかいった様々な設定上の謎が存在しますが、そういった謎の解明に拘らないのも好印象。
あくまでそういったものが存在する世界でのドラマを描く、ということに主眼を置いており、設定は会話の端々で語られるという形で説明されるのみです。設定も、本当に契約者には感情がないのか、結局対価を支払わなければどうなるのか、それどころか主人公は夜の“黒”と昼の“李さん”のどちらが実態に近いのか、といったことまでが曖昧にされており、受け手にどこまでが本当でどこまでが嘘((作中での)ただの噂)なのかが解りにくくさせているのが上手いところです。
「新世紀エヴァンゲリオン」以降、設定上の謎の解明を中心とした作品が増えたという印象があるのですが(まぁ見た本数が少ないので全く信頼性はありませんが)、そういったことには捕らわれず今のままの方向性でいってほしいですね。
今書いていて思ったのですが、後味の悪い話が多いです。最初の1話・2話「契約の星は流れた…」からして救いの無い内容であり、その後も何かと影の付きまとう内容ばかりです。
私はそういった後味の悪い話はむしろ好きなのですが、やはり一般受けしづらいのでしょうね…。
それにしても、15話・16話「裏切りの記憶は、琥珀色の微笑み…」で、“古い人類はでなく新しい契約者による世界の支配を目的とする組織”という清く正しく、いかにも超能力ものらしい存在が出てきたわけですが、次の回からはまたマイペースなお話し。良いですね。
私がこの作品を見出した時、本放送が12話、ケーブルテレビでの再放送が6話、という状況で、DVD1巻が1話・2話収録。なのでDVD2巻収録の3話・4話・5話で丁度全て見ることができます。もちろん初回特典版を予約しているので、今から楽しみです。アニメにハマるのは久しぶり。
tasoiさんへの応答・ラスト
前回のコメントへの応答です。
色々と書いたものの、余計だと感じたので一端全部破棄。
コメントを読む限り細かいところを除いてお互いの齟齬は大分解消されたようなので、今回のやりとりの大本部分について改めて書き、これでもって終わりにしたいと思います。
tasoiさんは例のバナーに対して「アレげ」と評しましたが、tasoiさんの弁によるとそれには悪意は無く、他愛のない普通の対話だということ。tasoiさんがそう言うならそうなのでしょう。まずそのことを信じます。私も表現方法の是非についてアレコレ言うつもりは全くありません。
しかしここで問題が出てきます。tasoiさんの申告を信用するなら、他の人の表現も信用する必要があります。具体的には、tasoiさんがとりあげたrnaさんのブクマコメント。これも「悪意の無い他愛ない揶揄」であることを前提にしなければなりません。でも、tasoiさんはそれを“嘲笑”とし問題視しています。
結局私が問題だと思っているのは、tasoiさんのそういった態度です。他者には自身の表現の正当性へ理解を求めながら、tasoiさん自身は他者の表現を不当なものとして決めつけている。自身の表現は“嘲笑でない”とし、他者の表現は“嘲笑だ”とする。悪意の有無を問題とするなら、何故rnaさんに確認をとらなかったのでしょう(もう今更なのでやらないほうが良いでしょうが)。rnaさんはブログを公開している方であり、確認の取りようのない匿名コメントとは立場が違います。
私から見ればtasoiさんの「アレげ」もrnaさんの「イナゴの飼育記録」も大して変わりのないものであり、悪意の有る無しに関わらず、それ単体なら取り立てて問題にするようなものではありません。
悪意の有る無しを問題とするなら憶測ではなくその点を明確にしてから問題とするべきですし、表現方法を問題とするなら具体的にどこがどう問題であるかを解説するべきでしょう。
そして、tasoiさんとD_Amonさんのやりとりを読んで思ったこと。それは“感情を理解しない”ことと“感情論に頼らない”ことをtasoiさんが混同してしまっているのではないかということ。
例えば、日々の生活が苦しく、「明日幸せに生きたい」と願う人の気持ち。それをD_Amonさんが理解していないか?D_Amonさんのブログの過去ログを読めばそんなはずはないことがすぐわかります。
しかしそういった感情のみに基づいた訴えは、「今不幸な人は過去の努力が足りなかったためだ。俺は努力しているからお前みたいにはならない。」というような典型的な自己責任論の前には無力です。価値観が根本的に違う相手へ感情論で訴えてもどうしようもありません。求められるのは、感情論をお互いに共通する言葉へと変換すること。感情論をぶつけ合うのは、対話以前の状態であるということ。
結局のところ相容れないのがこの2つであり、この2つは同じものだと言えるでしょう。
tasoiさんが自身の感情を根拠にしている限り、これ以上は平行線でしかありえないと思います。まぁ、それならそれで良いのかもしれませんが。
以下は蛇足。
“思いを汲み取らない”について。
“(いわゆる)ネットイナゴ”の思いを汲み取る、ということは、“ネットイナゴ”を一緒くたにして批判することの裏返しでしかありません。彼らの動機は、善意に基づいたもの、悪意に基づいたもの、単なる暇つぶし、など個々によって違うでしょう。そういったものを一緒くたにして“思いを汲み取る”ことができるのでしょうか。
できることは、“リンチを正当化する”・“他人のブログを炎上させる”といった確実に共通する部分のみによって一括りにし批判することしかないと考えます。これは過去の私自身に対する自戒を込めて。
“改悪”について。
これは本当にどうでも良いことだけど、前から気になっていたので。
tasoiさんに限らず、“改悪”という表現に反応する人をよく目にします。確かに“改悪”という表現には「改革すると悪くなる」という意味合いがある“偏った”表現だと言えるでしょう(というかそれを目的にしているのわけですが)。しかし、それならば“改正”という表現もダウトとなるはず。“改正”は「改革すると良くなる」という意味合いがある“偏った”表現なので、公正な表現を求めるなら(そのこと自体がおかしいと私は思いますが)“改革”という表現しか許されないはず。
しかし実際には“改正”は問題とされず“改悪”のみが問題とされます。私もそういった些細な表現にピリピリする人に気をつかって、括弧付きの“「改正」”という表現を使っています。この非対称性は何なのでしょうね?何故「“改正”という言葉はキモチワルイ」とか言われないのでしょうね?
私からは以上です。さすがにちょっと疲れたので(こういうガチではない形でのやりとりは慣れていないので)、しばらくはとりあげません。