元トレジャー信者が非信者の彼女にトレジャー世界を軽く紹介するための10本

元ネタ→http://anond.hatelabo.jp/20080721222220
参考→http://d.hatena.ne.jp/ombra/20080724/p1

まあ、どのくらいの数のトレジャー信者がそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「信者ではまったくないんだが、しかし自分の信仰を肯定的に黙認してくれて、
 その上で全く知らないトレジャーの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、信者の都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、トレジャーゲームのことを紹介するために
プレイさせるべき10本を選んでみたいのだけれど。

(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女にトレジャーゲームを布教するのではなく
 相互のコミュニケーションの入口として)

あくまで「入口」なので、コナミから独立する前、トレジャーが存在しない時代のゲームは避けたい。

井内ファンが『クォース』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。

そういう感じ。

彼女の設定は

ゲーム経験はいわゆる2Dアクション、2Dシューティングはやっている
3Dは苦手だが、音ゲーにはまっていたので覚えゲーに抵抗はない

という条件で。

まずは俺的に。出した順番は実質的には意味がない。

レイディアントシルバーガン(AC,SS)

まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「銀銃以前」を濃縮しきっていて、「銀銃以後」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。長さも5ステージだし。

ただ、ここで信者トーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。

このオマージュとメッセージ性過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に
伝えられるかということは、信者側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。

ゆけゆけ!!トラブルメーカーズN64)、シルエットミラージュ(SS,PS)

アレって典型的な「信者が考える一般人に受け入れられそうなゲーム(そう信者が思い込んでいるだけ
実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。

「信者としてはこの二つは“アクション”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。

爆裂無敵バンガイオーN64,DC)

ある種の懐古ゲーマーが持ってるドット絵への憧憬と、かふ壱氏の電波的なギャグを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにもトレジャー的な
「偏執的なカッコヨサ」を体現する数ドットの自機
「偏執的にこだわったゲーム性」を体現するカウンターボム
の二つをはじめとして、ゲーマー好きのする要素を世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。

ガンスターヒーローズ(MD)

たぶんこれをプレイした彼女は「魂斗羅スピリッツだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。

12年後にこの作品の続編が作られたこと、これが信者には不人気だったこと、
コナミ魂斗羅を復活させて、それがゲーマーにうけてもおかしくはなさそうなのに、
いまいちパっとしなかったこと、なんかを非信者彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。

ガーディアンヒーローズ(SS)

「やっぱりトレジャーゲームはストイックだよね」という話になったときに、あえて逆をつくのは「幽遊白書 魔強統一戦」や「ラクガキショータイム
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、多人数対戦時のメチャクチャな自由度が好きだから。

何も考えず盛れるだけ盛ってそれで選択可能キャラ数は45体、っていう数が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「捨てる」ということへの思い至らなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。

俺自身はキャラ数が多いとは思わないし、まだ入れれるだろうとは思うけれど、一方でこれが
原作付きタイトルだったらきっちり10体程度にしてしまうだろうとも思う。

なのに、オリジナルタイトルなのをいいことに好き勝手やって45体を作ってしまう、というあたり、どうしても
「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえはん氏がそういうキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。

エイリアンソルジャー(MD)

斑鳩から入った信者でNAMI氏を知っている人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。

シルエットミラージュよりも前の段階で、シューティングアクションの哲学とか2D表現技法とかはこの作品で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの作品がメガドライブ末期の時代に出たんだよ、というのは、
別に俺自身がそんなにメガドライバーでなくとも、なんとなくセガ好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆる井内シューでしかトレジャーゲームを知らない彼女にはプレイさせてあげたいなと思う。

ダイナマイトヘッディー(MD)

トレジャーの「職人的技術」あるいは「世界観づくり」を信者として教えたい、というお節介焼きからプレイさせる、ということではなくて。

「ドット単位の制御を必要とする」的な感覚がゲーマーには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそへッディーはジャンプアクション以外ではあり得なかったとも思う。

「繊細な操作を必要とされたい」というゲーマーの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「ゲーマーの気分」の
源はスーパーマリオブラザーズにあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。

罪と罰 〜地球の継承者〜(N64

これは地雷だよなあ。脳が二つ必要な操作系統に慣れるか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。

こういうエイソル直系の暴走電波系物語をこういうかたちで3D化して、それが非信者に受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。

斑鳩(AC,DC,GC

9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的に斑鳩を選んだ。

プロジェクトRSから始まってプロジェクトRSで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、弾幕シュー以降のパズルシューの先駆けと
なった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。

というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。



「駄目だこの懐古信者は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。

こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。

「死刑について。」について

kurotokage2008-07-27

 タイトルが思いつきません。
 それはともかく、最近目にした「はてな匿名ダイアリー」の記事「死刑について。」について。

 殺人事件の被害者遺族でありながら死刑廃止論者であり、そのことを言えないでいる辛さを語ったエントリー内容は心を打つものがありました。
 私の場合、周りがほとんど死刑支持者でありながらどうどうと反対を言えるのですが、もしかしてそれは環境に恵まれているんでしょうかね?

 反対論者と存置論者の境遇に非対称性はあると感じます。ブログ等で死刑の是非について語られるとき、反応があからさまに違いますね。ただ死刑反対であることを表明しただけで存置論者による批判的なコメントやブクマコメントがたくさんつけられるというのはよく目にする光景ですし、逆に粗雑な存置論でも当たり前のように受け入れられています。この辺は死刑賛成が8割、反対が1割という数の差からくることでしょうか。

 しかし元エントリーの人の場合は、被害者遺族であるということが大きいのではと想像できます。私のような殺人事件と直接関わったことのない人間ではなく、当事者だからこそ反対を言えない。
 死刑の是非についての論争で存置派から必ず出てくるのが「被害者遺族の感情を考えろ!」というもの。これは被害者遺族なら加害者を殺すことで復讐を果たしたいと考えて当然だという前提で出てくるものでしょう。だから被害者遺族がその前提に反することを言えば“異常”だと思われる。被害者や被害者遺族にはそのような抑圧が働いていることは間違いないでしょう。
 松本サリン事件の被害者である河野義行さん(うちのブログでは刑事事件の容疑者・被害者・被害者遺族の実名は書かないようにしてますが、河野さんは公人やジャーナリストとして活動しているので実名で)も、そのスタンスから異常視されることがあります。

 で、その辺を見事に表した内容のレスエントリー(という呼び方でいいのかな?)が。
http://anond.hatelabo.jp/20080722121819

 まず、一行目からアレですね。

死刑廃止したら私刑が増えるよね。

 まあ、こういう主張はたまに目にしますが、何を根拠に言ってるのでしょう。先進国と呼ばれる国の多くが死刑を廃止していますが、それらで私刑が増えているという報告はどのていどあるのでしょうか。

 いやそれ以前に、日本でも殺人を犯せば死刑になるというわけではありません。
 2007年の殺人認知件数は1199件(検挙率は96.5%)。それに対して同年の死刑確定数は23件。逮捕から判決が下されるまでに数年かかりますが、2007年の殺人認知件数は戦後最低、死刑確定数はここ40年で最高(1970年から2003年まではほぼ一桁)であることを考えれば、殺人事件に対する死刑判決の割合は本来よりもずっと高くなります。それでも2%ほどです。

 つまり自分の家族が殺されても、死刑によって遺族の応報感情が満たされることの方がずっと少ないわけです。
 では応報感情の満たされなかった彼らは、高い確率で私刑をおこなっているのでしょうか?そのような話は聞いたことがありません。加害者が刑務所にいるから物理的におこなえないというのはあるでしょうが(無期懲役になれば30年は出てこれないのですし)、しかしそれだけではないでしょう。加害者を憎んでいても私刑を思いとどまらせる何かがあるはずです。「死刑を廃止したら私刑が増える」というのは被害者遺族の心情を単純化して見る態度でなければ言えないのではないかと感じます。

 とはいえ、私刑のおこる割合についてのデータが無い以上、そんな与太話にツッコミを入れるのも意味が無いかもしれません。
 それよりもそれ以後の内容がひどい。

だってキミ、叔父の仇は討たないの?討つよね?なに?討たない?そりゃ叔父に対する愛情が足りないからだ。冷たい奴だな。むしろ殺したかったんじゃ?

 いやひどいというか典型的すぎて笑ってしまいますが、こういうのを見ると元エントリの人が死刑反対を言えないのも当然と感じますね。

 この人は家族が殺されれば加害者を殺したいと思うのでしょうしそれはおかしいことではありませんが、皆がそう考えるかはわからない。加害者を憎んでいても殺すことを願わない人もいることをこの人は想像できないんですね。

 この人にとっての“被害者遺族”は“加害者を殺したい被害者遺族”であって、それ以外は“被害者遺族”にはあたらないのでしょう。被害者遺族も一人一人考えが違って当然なのに、“加害者を殺したくない被害者遺族”を“異常”視し、「冷たい奴だ」と罵倒する。これは“被害者遺族”にかくあるべき姿を押しつける抑圧以外のなにものでもありません。

 応報感情を理由に死刑を支持する人が皆、このような被害者遺族を都合よく利用する人や、死刑反対の被害者遺族を少数派だからと切り捨てる人ばかりではないと思いたいのですが…実際のところどうなんでしょうね。
 それと同時に、殺人事件以外で“何か”に、戦争・公害・貧困・冤罪による死刑などによって家族を殺された人間の応報感情のことをどう考えるのかを知りたくもあります。

「ハルヒダンス」は何が評価されているのか?

※追記・再追記を書いています。

 本文部分は無理な内容が多く、これを取り下げたいと思います。コメント欄やブクマコメントでの批判の多くはその通りだと受け入れます。
 はてなスターを付けてくれた方や賛同的なコメントやブクマコメントを書いてくれた方には申し訳ありませんでした。

 珍しくアニメについて書きます(今こういう話題を書くとは本当に空気が読めませんね!)。“あの”「涼宮ハルヒの憂鬱」についてです。
 と言っても私はこの作品の本編を観てませんので、当然本編には全く触れません。

技術は技術でしかない

 この作品は一昨年くらいに流行っていましたね。あちこちのブログでもイヤというほどこれについてのエントリーを目にしました。
 で、それらではよくオープニングだったかエンディングだったかの映像が貼り付けられていました。「ハルヒダンス」とか呼ばれているアレです。その映像は非常に人気があるらしく、あちこちでネタにされ、しまいには人間がそれを真似て踊る映像が動画投稿サイトなどにアップされていたようです。
 私もその(元の)映像を観たことはあるのですが…正直観ていても違和感しか覚えず、なぜこれがそんなに評価されているのかわかりませんでした。

 いや、技術的にすごいのだろうということは素人の私でも想像できます。あれほどにウネウネと細かく動いているアニメは(特にTVアニメでは)観た記憶がありません。
 でも、技術は技術です。Tシャツプリントに例えると(なぜ)、インクの発色が良い、細かい柄がつぶれていない、圧膜のエッジがたっている、版ズレがない、などといったことと同じで、それ自体決して直接消費者から評価されるものではありません。
 ファッションにこだわる人が、「わー、これ切り替えをまたいでるのに柄がつぶれてない!」とか「インクジェットとシルクスクリーンをうまく組み合わせているなぁ」とか言ってくれることはありません。技術的に優れていてもダサいロゴやもっさいキャラクターがプリントされているだけでは見向きもされませんし、多少技術が雑でも全体的な柄が良ければ売れます。
 もちろん表現の幅を広げるために技術は必要ですが、まずは表現ありきで技術はそれを下支えするものでしかありません。

 話を元に戻すと、「ハルヒダンス」は確かに技術的にスゴいことをやっているのでしょうけど、しかしその技術でいったい何を表現しているかを考えるとあまりにもチグハグなことをやっているのではないかと感じるのです。

バランスの悪い“リアルさ”がもたらすもの

 いったい「ハルヒダンス」のどこに違和感を覚えたのか。それは“リアルすぎる”ことにです。
 恐らく実際にダンサーに踊らせそれを元にして制作されているのでしょうけど、それがあまりに人間の動きに近すぎて、デフォルメされたキャラクターデザインとの間にギャップが生まれてしまっています。

 手や足の動きに反動がある。頭の動きが体の傾きと連動している。そういった本来当然の動きが、人間本来の形とは違うキャラクターの体形あっていません。
 同じことはゲームの「アイドルマスター」にも感じます。このゲームの映像もよくアチコチで見かけますが、アニメチックなデフォルメされたキャラクターデザインとリアルな動きとがちぐはぐで、まるできぐるみを着て踊っているかのようです。

 アニメにしろゲームにしろ、“リアルさ”というものは全体的なバランスが大事だと思っています。
 ゲームにありがちですが、写真のようなリアルな映像でありながら、見えているところに行けないというゲーム的なお約束がギャップを生む。というより、リアルな映像から想像できる“できそうなこと”が実際にはできない時、逆に「リアルでない」と感じさせます。
 ある部分が突出して“リアル”であったとき、他の部分の“リアルさ”との差が単なる差にとどまらず、他の部分の“リアルさ”を押し下げているように錯覚してしまいます。

 今人気のある漫画「今日からヒットマン」は劇画タッチなので、これが「ハルヒダンス」のようなリアルな動きでアニメ化されればあまり違和感は覚えないでしょう。しかし「涼宮ハルヒの憂鬱」の登場人物は低めの等身、大きさや配置が実際と異なる目鼻、とあまり“リアル”ではありません。動きのリアルさとキャラクターデザインのリアルさの差が違和感となるのです。

 よーするに、デフォルメされたキャラクターにはデフォルメされた声と動きこそが必要だという当たり前のことなんですが。
 一般の役者がアニメの声を演じると違和感を覚えることが多いですよね?逆に本来なら不自然なアニメ声優による声の演技はしっくりきますよね?動きもそれと同じなはず。ディズニーのアニメはよく動きますが、その動きはオーバーにデフォルメされています。

そこで何が表現されたのか

 他の多くのアニメ作品では、各部分の“リアルさ”のギャップを埋めることはおこなっているはずです。
 例えば「ゾイド」(アニメの正式なタイトルはなんでしたっけ)。この作品ではロボットが3DCGで描かれていますが、よくあるツルツルテカテカなCGっぽい質感ではなくセル画風の処理がなされており、これが普通のアニメの手法で描かれた部分とロボットの描かれた部分とのギャップを上手く埋めていました。
 また、「プリンセスチュチュ」はバレエをモチーフにした作品で、バレエの動きを要所要所に折り込み実際に踊りもよく踊らせていましたが、等身の低いキャラクターに合わせて決してバレエの動きをそのままトレースするのではなく、動きそのものをデフォルメして表現していました。
 しかし「ハルヒダンス」にはそれらの工夫が見られません。

 さらに言うと、「ハルヒダンス」で表現されたものに一体どれだけの価値があるのかが疑問です。
 私はダンスのことはよく知らないので“ダンスとしての出来”はわかりません。しかし、“登場人物の表現”としては問題を感じます。
 本編を観ていないので推測でしか書けませんが、ダンスを踊っているキャラクターにはそれぞれ強い個性があるのだと思います。しかし「ハルヒダンス」からはそれらの個性が伝わってきません。短髪の女性キャラクターはいかにもな“無表情キャラ”っぽいし長髪のは“天然”っぽいですが、ダンスの動きは他のキャラクターとほとんど同じです。
 上で挙げた「プリンセスチュチュ」は、ある者は優雅に、ある者はキビキビと、ある者は儚くある者は激しくある者はコミカルにと、登場人物ごとに踊りにも個性が表わされていました。そこでは“技術”はあくまで表現するべきものを表現するために使われています。

 「ハルヒダンス」が“スゴい技術”を使って何を表現しているのかと言えば、登場人物の個性を無視し技術ばかりを前面に押し出した企業のデモンストレーションでしかないのでは?それは展示会場で業者向けにおこなわれる分には十分でも、一般視聴者向けとしてはおかしいのでは?それを支持するアニメオタクはどうなの?と、そう感じずにはいられません。

アニメはどこへ行こうとしているのか(おおげさ)

 私は声優の名前とか全然知らないのですが、アニメオタクはどの声優がどの作品のどの登場人物を演じているかとかよく知っていますよね。それはアニメにおける声の演技を重要視しているからだと理解しているのですが、なぜ動きに対しては無頓着なのでしょう。

 「ハルヒ」が流行ったあと、今度は「らき☆すた」という作品が流行りましたね。これも私は本編を観ていませんが、やはりオープニングだかエンディングだかの映像をあちこちで目にし、「ハルヒダンス」と同じ違和感を覚えました。で、「なんかヤバくない?」と思ってしまうのです。これからアニメが“動きのリアル志向”で進んでしまうと、かつてのTVゲーム業界(2Dから3Dへと移行していったリアル一辺倒の辺り)と同じ愚をおかしてしまうのではなかと。
 いやまあ私はあまりアニメを観ないのでどうでもいいといえばどうでもいいんですけど(えー)。

 とりあえず、「ハルヒダンス」を絶賛するアニメオタクはぜひ「OVA魔女っ娘つくねちゃん」を観ましょう!あれこそは「ハルヒ」の対極にある一つの究極のアニメだと思いますマジで!!

 しかしここを読んでる人でアニメをよく見る人ってどれくらいいるんでしょうね?せっかく書いたのに誰にも読まれないような気がします!

追記

 予想以上に批判的なコメントやブクマコメントがついたので、いくつかに応えてみたいと思います。
 あと、釣りだ釣りだとうるさいので見出しも変えました(旧タイトル「涼宮ハルヒの憂鬱」を絶賛するアニメオタクはエセオタクだ!(見出しは演出です!!!)」)。流行に乗ってみたつもりだったのに(遅れてる)!

まず、id:KoshianXさんのコメント

アホか。本編見てなきゃ表現されたものが何かわかるわけないだろ。本編見終ったからこそあのダンスの意味がわかるんではないかね。

他にも「本編を観ずに…」といった種類のコメントが多く見られました(id:bunoumさん、id:te2uさん、id:isoさん、id:kyo_juさん)。これらは一見正論のようですが、実際にはとてもナンセンスなものです。

 まず、本編と「ハルヒダンス」の切り離しをおこなっているのは私ではありません。それは、動画投稿サイトに本編から「ハルヒダンス」のみを切り出してアップしたり、それをブログに貼り付けて紹介している“ハルヒファン”です。私はただ単に、本編から切り離されたそれらを動画投稿サイトやブログで偶然目にしただけです。それらがなければ、私は本編を観ないかぎり「ハルヒダンス」を観ることはなかったでしょう。つまり、彼らの「本編を観ているという前提を共有しない者」も訪れるそういった場所へのそういった行動によって単独で世に放たれたことで、事実上「ハルヒダンス」は本編から独立した単独の映像作品となってしまったわけです。
 これは製作者にとっては不本意なことでしょう。しかし、一つの作品について語る時、製作者の思惑を考慮する必要はないはず。「「ハルヒダンス」と本編を切り離すな」という文句は、私にではなくハルヒファンに向けてください。

 本編でとり上げたアニメの「ゾイド」、あれは元となったプラモデルとして展開していた「ゾイド」を知っているか否かで評価の仕方が変わってきます。かつてゾイダー(ゾイドオタクのこと)だった私は、あのアニメをゾイドの流行・迷走・凋落・企画の終了・そして復活の狼煙としてのアニメ版「ゾイド」というように、ゾイドのたどった流れの一環として語ることができます。細かい部分でも、ある回で出てきた初期のマイナーなゾイドにどのような意味があるのか、そういった視点で観ることができます。これは単独のアニメとして「ゾイド」を観ていた人には不可能なことでしょう。
 では、プラモのゾイドを知らない人にはアニメ版「ゾイド」を語る資格はないのでしょうか。もちろんそんなことありません。アニメ版「ゾイド」にはプラモのゾイドの販促番組としての役割が確実にありましたが、そんなこととは関係なく単独のアニメとして評価されることを免れません。一つの作品に関する様々なことは、全てつながっていると同時に切り離すこともできるはずです。
 「ハルヒダンス」が事実上ハルヒファンによって単独の作品として仕立て上げられたのであれば、それもまた本編とは無関係な単独の作品として扱われて当然です。

 id:Amerikanさんのブクマコメントが気になりました。

KurokageさんはWiiハルヒのダンスゲームが出ることについてどう思いますか?

 id間違ってますよ!というのは置いておいて、そういえばそういう情報をゲーム雑誌で見た覚えがあります。その紹介サイトを見てみると、そのゲームはストーリーモードもあるようですが、基本はダンスに特化した内容のようです。これなど正にアニメ本編と「ハルヒダンス」の切り分けでしょう。もし何かの気まぐれで私がこのゲームをプレイしたら、当然アニメ本編のことは全く考慮に入れず、単独のゲームとして評価するでしょう。
 以上のことから、「本編を観ずに「ハルヒダンス」を語るな」というのは「原作小説を読まずにアニメ版を語るな」と同程度の暴言だと考えます。

 次にid:heartless00さんのブクマコメント。

三次から薄れつつあるリアルや日常を作品のなかで表現する試みだと思う。エヴァの時よりも日常の大切さを感じた。id:kurotokageは二次にも三次にもリアリティを求めない?ははは、下らない人生だな。←ココ演出


 えーと、私はリアリティを求めるのが悪いとか書いた覚えはありません。むしろ逆で、ある部分でのリアリティばかりを追求するのは全体のリアリティを損ねるのではないかという(それ自体あっているかどうかはともかく)疑問を書いたつもりです。
 もとより私は「オーガス02」とか「WXIII機動警察パトレイバー」のような日常を丹念に描いた作品が好きで、アニメで日常のリアリティを表現することの意義を理解しているつもりです。

 と誤解を解いた上で、では「ハルヒダンス」が“日常”を描いたものなのでしょうか?確かにこれは本編を見ていないとなんとも言えないかもしれません。本編を見ていれば、あれがあの登場人物達にとっての“日常”だと思える可能性があります。
 しかし、本文でも少し触れた「らき☆すた」はどうなのでしょう。私は「らき☆すた」は原作漫画を2巻まではアニメ化前に読んでいます。アニメは基本的に原作に準拠しているらしいので、登場人物はだいたいそのままなのでしょう。では「まったり萌え四コマ」の「らき☆すた」の登場人物達にとってあのダンスは“日常”なのでしょうか?運動神経があるというこなた以外の人物にあのダンスを当てはめて、それが“日常”だとはとても言えないと思います。

 コメント欄のid:y_arimさん。一番反応の欲しかった人に反応がもらえて嬉しいです。しかし、批判としては的を外していると感じます。
 とりあえず指摘された事実誤認(ダンサーを使ったと想像したことと色々な嗜好のあるアニメオタクを一緒くたに扱ったこと)についてはあやまります。すみません。

 「ハルヒダンス」においての人間的におかしな動きを細かく抜き出しての指摘はさすがだと感じますが、しかし約1分間ひたすら動き続けるそれに対し、それぞれ1秒にも満たないそれらを10とりあげても、全体の6分の1におかしな動きがあるとしか受け止めることができません。
 人物の個性についても、サビやラスト部分以外でも場所を入れ替える場面でそれぞれの人物に「役割を演じさせる」ことである程度個性を描いているとは思いますが、そういった一部一部においての描き方よりも全体を通してどう描かれているかが大事なのではと考えます(男性キャラクターは一方がジャケットと黒板の色が近くて動きが比較しづらかったです)。

 私が「リアルすぎる」と書いたのはいきすぎだったかともと思いますが、しかし、では有村さんはとりあげたそれらの部分をどう感じているのでしょうか?仮に「ハルヒダンスver2」が作られるとすれば(もしかすると「らき☆すた」のがその役割を果たしているのかもしれませんが)、ハルヒファンはそれらの点をどうすべきだと思うのでしょう?そのままで良いのか、他の部分に合わせて自然な動きに変えるのか、他をリアルでない動きに変えるのか。それによって「ハルヒダンス」を評価する人たちがあの映像をどう捉えているのかが理解できそうです。

 私が知りたいのはそこなんですよね。今回の内容は思いつきでいきなり書いたわけではなく、以前から書きたいと思っていのものですが、書こうと思った時から「ハルヒダンス」についてのハルヒファンの評価をいくらか見回っていました。
 そこでは皆「ハルヒダンス」を絶賛しているけど、一方で一体何を評価しているのか全く分からなかったのです。なので私は技術的な部分を評価しているのだろうとあたりをつけ今回の内容を書いたのですが、それに対する反論もいまいち要領を得ない。
 そこがわからなければ、どんな批判も単に揚げ足をとっているだけとしか感じません。

同じくコメント欄のdaaku_naitoさん。
 私は別に「ハルヒダンス」を批判したかったわけではなく(でも改めて読み返してみるとそうとしか読めませんね、すみません)、上でも書いたように一体何が評価されているのかが理解できず、それを知りたかったのです。批判の材料が無いというよりも、評価される材料が見当たらないというか。
 その材料は本編にこそあるというなら、それは私の見当違いだったということでしょう。私はてっきり、「ハルヒダンス」は本編から切り離されても評価され得るものであると思っていたのですが(大勢の人が集まって路上で踊るなんてのはそういうことがあってのものだと)、そうではなく「ハルヒダンス」は本編の単なるオマケでしかなく、本編を見ていなければ価値のないものだというのであれば。

 最後にid:CrowClawさんのブクマコメント

あれってオタクが真似して踊るためのダンスじゃなかったの?実際にやるならそれなりにリアル志向でないと困るじゃん。

 これはまったく想像しませんでした。確かにwebが普及しオタクどうしが繋がりやすい環境の今、そのような理由で映像が作られてもおかしくありません。今回の反応の中で一番腑に落ちました。

再追記

 どうも意地になっていたようです。とりあえず少し時間を置いて考えてみたところ、思い違いや認識不足が多く色々とまずい内容だったと判断し、本文部分を取り下げたいと思います。
 反応を下さった方の中で特に、丁寧な指摘をしてくれながらムチャな応答をしてしまった有村(id:y_arim)さんには本当に申し訳ありません。

 それとは別に、「本編を観ずに語るな」という批判には今も納得していませんので。
 と、書いているところにid:fuzzy2さんによる重要なブクマコメントが。

放送1話本編のキャラの動かなさ加減のフラストレーションの後で、気持ちよく動くダンスEDの爽快感がポイント。ダンスEDの表現手法を突っ込むのは野暮ってものではないかと。

 納得しました。確かにそういうことなら本編と切り離すことは無理だし、本編あっての魅力ということになるでしょう。fuzzy2さんに感謝します。

 しかしそうなると別の疑問が出てきます。fuzzy2さんのコメントを信用するなら、本編と「ハルヒダンス」は決して切り離してはならないものであり、本編を観ていない者が知っているべきではないものではありませんか。第1話の実質的なネタバレということでしょう?それがあちこちで注意書きもなく目にすることができてしまうということは、推理小説の犯人がブログに無造作に書かれているのとどう違うのでしょう?「観てから言え」とかのんきなことを言ってる場合ではないはず。
 あらかじめ「ハルヒダンス」を知っていることによって第1話から受けるはずの驚きが削がれるなら、それはアニメの「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品の魅力がいくらかでも削がれることを意味するのではありませんか。それはハルヒファンにとって不本意なことであり、拡散を防ぐことはできなくても、それに対し批判的であるべきなんじゃないでしょうか?
 それともネタバレであっても多くの人の目に触れるべきものだと言うなら、やはりそれを単品の作品として観ることは何もおかしくはないはず。
 納得できたはずなのに納得できません。

※あまり関係ないことだったので削除します。グダグダですみません。

 それにしても今回はこたえました。批判的なコメントがどれだけついても気にならないというつもりだったし、以前炎上っぽくなった時は実際あまり気にならなかったですが、今回はなぜか強烈にきました。おかげで昨日はほとんど眠れませんでしたよ!寝不足と暑さのせいか昼飯を吐いてしまったし!!
 何がくやしいかと言えば、ブックマーカーの思惑どおりに心を乱されてしまったこと。ああ本当にくやしいですよ!

サボってすみません

 どうもお久しぶりです。前回の更新からもう4か月ですね。私の中ではまだ2か月くらいの感覚なのですが、そんな微妙な差はどうでもいいですね。

 別に書きたくないから書かなかったわけではなく、書きたいけど時間がありませんでした、言い訳です。
 で、今日はちょっと時間がとれたのでなんとか更新してみようかと思ったしだいです。

 はじめは、最近起こった秋葉原での事件について、というかその周辺について書こうかと思ったのですが(事件そのものについて書くのは私のガラじゃないので)、そういう重苦しいことを書くには心も体も疲れていて辛いことと、どうもここで扱う内容が時事問題や社会問題についてのことに偏ってきてしまっていることを考えて、今回はどーでもいいオタク的なことについて書くことにしました。
 明日からまた仕事だ!

“リスク管理”“防犯意識”を叫ぶいかがわしさ・2つの性犯罪に関する反応から感じること

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080212/plc0802122007008-n1.htm
痛いニュース(ノ∀`) : 「朝の3時ごろまで、盛り場でうろうろしている未成年もどうかと思う」 米兵による少女集団レイプで、広島県知事が発言→非難の声 - ライブドアブログ

 広島と沖縄でおこった性犯罪。それに対する反応に、やはりと言うか何と言うか、被害者の“落ち度”をあげつらう声がありました。今回はそれらについて。

危ないのはあなただ

 まず、日本におけるレイプ事件の3割以上が“顔見知り”による犯行とされています。なので(泣き寝入りのケースを考えに入れなければ)3割以上の事件には「知らない人についていってはダメ。」というのは通用しません。
 つまり、3割以上という割合の大きさを考えると、レイプ事件を想定しての“リスク管理”を本気で訴えるなら、この“顔見知り”による犯行というものも強く訴える必要があります。

 あなたの娘、姪、妹、姉、友人、同僚に「俺がお前を襲うかもしれないから俺こそを疑え」と。
 さらに「父親、兄弟、親戚、友人、教師、同僚、近所のおじさんを疑え」と。
 性犯罪に遭うのは女性ばかりとは限らないので男女問わず言わなければなりません

 それができていないのなら、軽々しく“リスク管理”などと口に出さない方が良いでしょうね。

あなたが犯罪に遭えば笑いながら落ち度を指摘してあげよう

 そもそも、“リスク管理”って言葉自体がなんとも胡散臭いですね。
 どんな事件であっても、それが起きてからならいくらでも“落ち度”を指摘すること、ようするに“後出しじゃんけん”的な批判なら、容易にできます。“落ち度”の無い犯罪被害者なんてそうそういません。同時に、起きてからなら「どうすれば良かったか」もいくらでも言うことができます。
 “リスク管理”を名目にした被害者非難の卑劣さの一つはここにあります。

 当たり前ですが、四六時中犯罪に遭うことを想定して生きているわけではありません。朝急いでいて原付のキーを差したまま駐輪所に停めてしまった。仕事場でトイレに行っている間だけと思い財布を出しっぱなしにしていた。そういったちょっとしたミスや迂闊さから犯罪者に付け入るスキを与えてしまうことは誰にでもあり得ることです。ここぞとばかりに被害者を叩いている人達は、そういったことささいなことを理由に非難される社会を望んでいるのでしょうか(ただまぁ、“なぜか”そういった批判は性犯罪にばかり集中するのですがね)。
 しかし実際に事件がおこった後は、ここぞとばかりに「それみたことか」と被害者の“落ち度”をあげつらう奴らが湧いて出てくるのです。んなもん後からならいくらでも言えるっちゅーに。

 問題は、そういった非難が「“落ち度の無い被害者”のみを許容する」ということに繋がり、その結果、特に好奇の目で見られやすい性犯罪の被害者は世間に訴えにくくなるという状況を生むということです。
 “リスク管理”を叫ぶことがリスクを生むという、なんとも皮肉な話ですね。

 “リスク管理”という単語を見かけたら、「リスク管理を名目にした被害者バッシングかもしれない」と疑いましょう。リスク管理のためにね!

公の場で何か言うときは効果と影響を考えた方がいい

 しかし「犯罪に遭うリスクを減らすために注意を喚起することもダメなのか?」という声もあります。
 根本的に勘違いされているのは、それぞれの“効果”と“影響”です。

 あなたが友人知人に「夜の繁華街は危険やから出歩かんほうがええよ」と言う場合、それは相手にこれから起こり得る可能性の一つを提示することであり、相手の選択の幅を広げることです。それが“効果”。
 それを聞き相手がどのような行動をとるかは当人が判断すること。その程度の“影響”であり、その程度で良いのです。

 しかし産経の記事や県知事の発言は、すでに起こってしまった事件の被害者の行動をあげつらってのものです。言うまでもなく、性犯罪で一番苦しんでいるのは被害者本人です。「それみたことか」とばかりにその被害者の“落ち度”を指して責めることにどのような“効果”があるのでしょうか。それは単に傷ついた被害者をさらに傷つけ、自責の念へと追いやるだけではないでしょうか。
 また、産経新聞と言えば、“三大紙”に入れてもらえなくても一応は全国に名の通った新聞です。そこで“落ち度”をあげ責めることがどういう“影響”をもたらすか。県知事という発言力を持った人間に「どうかと思う」と言われることがどういうことか。

 これらの違いを考えなければ、その“リスク管理”とやらは何の効果も与えないでしょう。

夜中に繁華街で遊んでたから、なんなの?

 さて、「夜中や深夜まで繁華街をうろついている」ということは、果たして批判されるべきことなのでしょうか?
 「実際そのケースで被害に遭ったのだから当然だろう」と思うかもしれませんが、そうなったケースだけを取り出せば100%になるのは当ったり前です。しかし実際には、夜中に繁華街で遊ぶ女性の大多数は犯罪被害に遭っていません。

平成15年の犯罪(警察庁)
罪種別時間帯別認知件数(pdf)

 例えばこれなどを参考にすると(あくまで単なる認知件数でしかありませんが、とりあえずの参考として)、学生の下校時間辺り(16〜18時)の強姦件数は150件、深夜0〜2時辺りだと356件。これだけ見ると圧倒的に思えますが、そもそも強姦に遭う確率はどの程度でしょう。
 最近はやれ犯罪の凶悪化だとかリスク管理だとかいった声が大きく勘違いしそうになりますが、日本は治安の良い国です。「夜中に繁華街で遊んでいればレイプ事件に遭う」とういうことがデフォルトではありません。

 2003年の強姦件数は約2500件。これほど被害者がいるということは悲しい話ですが、しかしレイプ事件に遭う確率を考えた場合、その可能性は僅かなものだとも言えます。女性だけに限定し、年齢からレイプ事件に遭いやすい層を狭めに1/3と考えても、対象となるのは約17000000人。
 一方、約2500件全てが夜の繁華街で起こったわけではもちろんありません。約1/3は顔見知りによるものであり、それ以外も自宅だったり道端だったりと様々。
 基本的なレイプに遭う確率自体が少ないのなら、それが3倍になったとしても実際の差は僅かなものです(強姦の認知件数は強盗件数の約1/2程度であり、粗暴犯の約1/40程度であり、窃盗犯の約1/1000程度です)。

 つまり被害者の側にとってみれば、リスク管理や防犯意識云々以前に、とても運が悪かった。たまたま犯罪者に目をつけられてしまった。ただただ夜の街で楽しんでいただけ、であり、被害者が犯罪を招いたわけではない、ということ。決して、「夜中に繁華街で遊んでいれば当然」なわけありません。

 「それが僅かな差であっても夜中に出歩かないことでリスクを回避できるのならそうすべきだ」と言うかもしれません。
 真面目に品行方正にキヨクタダシクウツクシク生きている人にとって、夜中に繁華街で遊ぶようなことは下らなくいかがわしく「フリョーのはじまりだ!」とか思われるのかもしれませんが、しかしそれは人それぞれです。
 なぜ夜中に遊ぶのかと言えば、ある人はそれ以外にストレスを解消する方法を知らなかったり、ある人はそういうところにしか居場所を見つけられなかったり、あるいは純粋に他には代えがたい楽しさを感じたりと、その理由は様々でしょうが、共通して言えることは、僅かなリスクとは引き換えにできないくらいには価値があるということです。
 それを理解できるかどうかは関係ありません。ただ、生きていく上で必要なガス抜きや娯楽を、“安全”とそう簡単に引き換えにできるわけではありません。そんなに僅かな“安全”が大切なら、スキーヤーやサーファーや登山家などの、その趣味に危険の伴う人たち全てを批判すればいい。

合意の無いSEXはレイプ

 沖縄の事件では、被害者が容疑者についていったとうことが槍玉にあげられています。それをもって「軽率だ」とか何とか言いたい放題。
 しかし詳細が明らかになっていない現状(明らかにならなくて良いのだけど)、「軽率」と断定することが実に「軽率」です。何かやむにやまれぬ事情があったのかもしれないし無かったかもしれない。

 私は容疑者と犯罪者を明確に分ける必要があると考えるし、個々の(特に)性犯罪事件の詳細が広く知られるべきではないと考えるので、特定の事件についてどうこう言うつもりはありません。
 ただ、ハッキリ書かなければならないのは、どういう状況でも、被害者と加害者がどんな関係であろうとも、合意の無いSEXはレイプだ、ということ。
 男性の家に女性が上がったからといって、それは襲ってもいいということではない。お互いに“つきあっている”という関係でも、それはSEXを認めたこととは違う、ということ。

犯罪は被害者がいるから起こるのではない

 イギリスでの監視カメラについての調査では、監視カメラの周辺では犯罪が減ったが、代わりに監視カメラの無い場所での犯罪が増え、総犯罪数に変化は無かったという調査結果があります。また、そもそも監視カメラと犯罪件数の相関関係は無いとも言われます。
 日本については監視カメラについての調査はろくすっぽおこなわれていないのでよくわかりませんが、そういった調査から考えると、犯罪は防犯意識やリスク管理などによってどの程度防げるのかが疑問となります。先日のニュースでは、監視カメラなど気にもせず凄まじいスピードで機械から金を抜き取るガソリンスタンド強盗の事件が放映されていました。

 いじめなどもそうですが、犯罪は強く警戒すればするほど巧妙になり、地下に潜っていくものではないでしょうか。
 もちろん警察の努力などを無意味だと言うわけではありませんが、抑止や監視による防犯には限度があると思えます。まして、個人による防犯努力などどの程度の効果があるのでしょうか?本気で“リスク管理”を考えるなら、まずはそこから考える必要があるでしょう。

リスク管理チキンレース

 一方で、リスク管理だ危機管理だ自己責任だと“危機感を煽る”ことがどのような効果をもたらすのでしょうか。
 リスク管理や防犯意識の必要性を過剰なまでに訴えることよって、皆が様々な犯罪に対して対応策をとる。犯罪者はそれを掻い潜ろうとする。その犯罪の被害者の落ち度を責め、更なる防犯対策を訴える。そうやって犯罪者とのチキンレースを繰り返せばどうなるか。その行き着く先は「女は家から出るな」になるんじゃないでしょうか。

 犯罪を犯すのは簡単です。台所から包丁を持ち出し、テレビを見ている家族の後ろから近づき首筋を切りつければ、殺人事件の完成です。車を持っているなら、フルスロットルで人ごみに突っ込めば大量殺人が可能です。
 どれだけ防犯対策をとろうとも、常に犯罪を起こせる“スキ”はあるのです。何なら個人宅の各部屋にも監視カメラ設置を義務づけますか?車は10キロまでしか出せないように規制しますか?
 それは誰もが「極論だ」と言うでしょう。私は私で防犯意識そのものは必要だと考えています。しかし、現実には“極論に匹敵する防犯対策”がすでに始まっている、私はそう感じます。このままチキンレースを続けていていいのでしょうか。

結局、あなたはどうなれば満足?

 で、結局のところ、「批判されることのない性犯罪被害者像」とはどのようなものなんでしょうか?

 「家に閉じこもり、ドアには3重のカギを掛け、来客にはインターフォン越しにのみ対応し、にもかかわらず針金の入った窓を特殊な器具を用いて破った複数の屈強な男が、恐ろしい凶器を持って襲いかかり、普段から備えている防犯グッズを使い、かつ護身術を駆使しても叶わず、殺されることも覚悟して最後の最後まで殴られながらも必死の抵抗を試みた結果、被害に遭ってしまった」ような被害者のみが批判を免れるのですか?

 「いや、そこまでは…」と言うでしょうが、後は“どの段階か”です。
 つまり、ただの野次馬である“あなた”が、どの段階なら満足するか、という実にクソくだらない、どうでもいい話です、これは。

 私たちは、赤の他人に自分の人生を評価されるために生きているわけではない。同情できるとかできないとか知ったことではないし、当人にとって人生を左右する事件を“リスク管理”の土台にするような“あなた”のことなんてどうでもいい。

都合が良い時だけ“セカンドレイプ”という言葉を使っているのは誰か

 ここで、「ここぞとばかりに」私が過去光市事件について書いたエントリーから、“セカンドレイプ”について書いた部分を再掲します。

弁護団の主張はセカンドレイプなのか
 今回の裁判に対する批判の中で、「弁護団によるセカンドレイプだ」というものをいくつか見かけました。日本で“セカンドレイプ”という問題が注目されていたとは知りませんでした(皮肉)。
 確かに今回の弁護団の主張は、すでに亡くなっているとは言え被害者女性の尊厳を傷つける可能性のあるものです。
 では、どうすれば良いのか。もし仮に弁護団の主張が事実だったとしたら、どう主張すれば被害者を傷つけないですんだのでしょう?セカンドレイプという問題の難しいところは、事実関係を争う上で被害者を傷つける主張をおこなわなければならないことがあることです。
 そもそも、セカンドレイプの問題は個々の裁判での事例の問題ではなく、警察・司法の抱える構造的問題であり(改善されつつあるけど)、被害者のプライバシーを顧みない報道の問題であり、そして今なお「被害者にも落ち度がある」という主張がまかり通り、被害者が非難や好奇の目に晒される社会そのものの問題です。
 今回“セカンドレイプ”という言葉を用い批判している人達は、これらの問題と向かい合う気があるのでしょうか。単に弁護団を非難するのに都合が良いから使っているだけちゃうの?と。。
http://d.hatena.ne.jp/kurotokage/20070624/1182692975

読んでほしい議論

最後に、あるブログのエントリーを紹介して終わります。

2005-12-02

 このエントリーは、(たぶん)私がブクマコメントで紹介したことで20以上のブクマを集めるくらいには注目されましたが、今となってはそのブログの内容から、これで良かったのだろうかと思うことがあります。しかしその内容は、“防犯意識”を訴えながら「派手は服装をしていたんだから自業自得だ」といったような全く的外れなことが言われる現状において、一人でも多くの人に読んでもらいたいものでもあります。なので、改めてここでも紹介しました。

お知らせ&愚痴&張り張り

 コメント放置してしまってすみません。現在仕事が地獄のメニューと化していて、返信の文章を考える余裕もありませんです。なのでもう少し放置させてください。

 会社からの更新なのですが、いやもうしんどいですな。先週は80時間労働で今週もそんな感じです。世間では「今度の3連休は〜」とかそんなフレーズをよく目にしましたが、私は1連休がやっとでした。そんな状況で更新なんてしてられませんって。と言いながらここ1、2ヶ月はそこそこ更新できていたんですけどね。もうあきまへん。ゲームしたい!漫画読みたい!「DARKER」の最終話をビデオに撮っておきながらまだ見てない!落ち着いてゆっくり観たいのに、落ち着けない!

 こんな時は美しく叙情的な音楽を聴くにかぎります。

アニメオタクは規制反対を貫けないヘタレなのか

kurotokage2007-09-30

アニメ「School Days」最終回に対するアニメオタクの反応にショック

 今週、地上波での放送が自粛されて話題となったアニメ「School Days」の最終回が「AT-X」で放映され、大きな反響を呼びました。
 その反響は絶賛するものや反発するものなど賛否が分かれていましたが、そういった作品の評価とは別に「これは地上波での放送は無理だろ」とか「TV局の判断が正解」といった自粛を支持するものが少なくありませんでした。その中には軽い気持ちで書いたものもあるでしょうが、本当にそのように判断されたとしか思えないものがあります(また、軽い気持ちで書かれたものであっても、昔と比べ規制が強くなっている状況でそのような発言はいかがなものか感じます)。

 私は、本来なら規制に対して抵抗するべき立場のアニメオタクからそのような発言が多数なされたことにショックを受けました。それこそ最終回の内容よりはるかに強いものを。
 テンション高いままはてなブックマークコメントで色々書き散らしましたが、ここで改めて規制のあり方などについて私の考えを書いてみたいと思います。

 ネタバレを含むので“続きを読む”で。眠い。

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