死刑と終身刑

kurotokage2007-08-16

 死刑反対の私が書くべきではないことかもしれませんが…。
 「死刑廃止には賛成だが、変わりに終身刑を求める」という意見をよく目にします。しかし、これにはどうしても疑問を感じます。

 死刑を廃止し終身刑を置くという選択は、“ある視点”から見れば大きな変化と言えますが、“別の視点”から見ればほとんど変化のないものです。
 “ある視点”とは、受刑者の視点。受刑者にとっては、早期の死と死ぬまでの懲役とでは天と地の差があると思います(といっても人によっては(というか私は)終身刑よりも死刑を望むでしょうが)。
 “別の視点”とは、受刑者以外の、この日本の社会に生きる私達の視点。死刑も終身刑も凶悪犯罪者を永遠に社会から抹殺するという点ではほとんど同じです。
 つまり、「死刑の変わりに終身刑を求める」という意見は、旧来と変わらず犯罪者を社会から排除することによって(元犯罪者を受け入れるという)リスクをほとんど背負わず、しかし死刑という殺人の片棒は担がないという“意識を得る”ことを意味するのではないでしょうか。

 以下、“社会が犯罪者をどう受け入れるか”という視点のみで書いていきます。

 結局のところ、死刑賛成派も「死刑の変わりに終身刑」派も、犯罪者を社会から排除したいという点では同じということ。死刑を「犯罪者を社会の中でどう扱うか」という視点で見れば、「死刑の変わりに終身刑」という考え方は単なる“自己満足”にすぎないのではないか、という疑問を感じます。
 もっとも、「犯罪者は社会から排除されて当然」というのであれば矛盾はないのですが。

 日本では毎年約1000件の殺人事件がおきているということです。そして、その内のほとんどが“衝動的な犯行”だということです。いわゆる「カッとなってやった」というやつですね。多くの人は「自分は犯罪なんて犯さない」と考えていると思いますが、殺人事件をおこした人間のほとんども、きっとそのように考えていたのでしょう。
 殺人は許されないことだというのはもちろんです。しかし、「犯罪者は社会から排除されて当然」という考え方は、ある意味で“人間を信頼しすぎている”と言えるのではないでしょうか。人間はちょっとしたことで理性を失い他人を殺せてしまう存在であることも事実。

 誰もが殺人者になりうる中で求められるのは、一度の過ちで全てが終わりになる社会ではなく、過ちを自覚させ、罪を償わせ、更正させる社会、ではないかと考えます。
 こういった考えには「甘い」という声が投げかけられるでしょう。実際“犯罪者を更正させ受け入れる社会”はそのまま“元犯罪者を受け入れる”というリスクを背負う社会でもあります。しかしそのリスクは受け入れなければならないものであるとも考えます。

 「(元)犯罪者を社会から排除する」という考えは、ようするに「危険な要素を排除する」ということであり、それは(元)犯罪者に限らず様々な“危険があると認定された存在”を排除するということではないでしょうか。危険を少しでも孕んだ要素を排除するという社会は果たし成り立つのか。もしくは人間が幸福に生きることのできる社会なのか。
 極端な話、私達は誰もが将来犯罪者になりうる存在、“犯罪者予備軍”です。これは私達自身が社会にどう受け入れられるかという問題でもあると私は思います。