「鏡の法則」といじめ問題

「鏡の法則(ハンカチを用意して読め!)」(豪一郎がゆく)

 唐突に今流行の「鏡の法則」批判です。コメント欄やはてなブックマークコメントを見ても批判的なものが多く(賛同するものもけっこうな数ありますが)、いまさら書くのもどうかと思ったのですが、私が感じたは問題点は話のぶっ飛びぐあいや啓発セミナー臭さではなく(それらもアレだけどこちらに迷惑が飛んでこないかぎり信じるも信じないも自由)、あまり他では触れられていない“いじめ”の扱いだったので、詳しく書かせてもらいます。

 ちなみに、「感動を誘うための小道具として“いじめ”を扱うことが問題」とは言いません。私はよりよい作品のためならどんなものでも利用するべきだと思っていますので。問題はその扱いの杜撰さです。

1.子供がいじめられていることを親に話さないのは何故か

 いじめられている子供はいじめられていることを惨めに感じ、恥と捉えます(本当は理不尽な暴力(精神的なものも含む)なのだから恥じる必要はないのだけど、子供は無駄にプライドが高いので弱者であることを隠したい)。なので、当然親や別のクラスの友人に、自分が恥だと思っている“いじめられていること”を話すことはなかなかありません。さらに、話さないということはそれだけその相手が自分にとって大切だからに他なりません。

 しかし「鏡の法則」では、子供がいじめられていることを親(A子)に話さないのはA子の父親に対する態度に関連づけています。

A子「そうか!私が子どものころ、口うるさい父がイヤでした。いろいろ口出ししてきたりするのがイヤでした。今考えてみれば、それも父の愛情からだったんでしょうが、当時は負担でしたね。今、息子も同じ思いなんだと思います。私の押し付けがましい愛情が負担なんだと思います。」

B氏「あなたが子どものころ、本当はお父さんに、どんな親でいてほしかったんでしょうね?」

A子「私を信頼してほしかった。『A子なら大丈夫!』って信頼してほしかったです。・・・(しばらく沈黙)。私、息子を信頼していなかったと思います。『私が手助けしないと、この子は問題を解決できない』と思っていました。それで、あれこれ問いただしたり、説教しり、・・・。もっと息子を信頼してあげたいです。」

 その論理のメチャクチャさはここでは置いておくとしても、いじめられている子供はそのことを親に話さないという当たり前のことを歪めてしまっています。これによって本当に捉えなければならない子供のサインを見逃すことになりかねません。

2.いじめに原因はない

 「鏡の法則」では

B氏「あなたに起きている結果は、『自分の大切なお子さんが、人から責められて困っている』ということです。考えられる原因は、あなたが『大切にすべき人を、責めてしまっている』ということです。感謝すべき人、それも身近な人を、あなた自身が責めているのではないですか?一番身近な人といえば、ご主人に対してはどうですか?」

と、子供がいじめられている原因をA子の夫や父親への態度にあるとしています。これもまた笑えるほどぶっ飛んでいますが置いておくとして、問題は“いじめの原因”を設定し、「いじめはいじめられる側にも原因がある」という暴論と同レベルのことを書いていることです。
 いじめに“原因”はありません(複数の人間から一方的な暴力を振るわれるに値する“原因”ってなんですか?)。ささいなきっかけから発生しうるもので、誰もがその標的になる可能性があります。

 こういった「いじめはいじめられる側にも原因がある」という類の暴論は、いじめに一定の正当性を与えるだけでなく、いじめられる側に理不尽な努力を強いることにもつながるものです。

3.こんな親はいやだ

A子「私にとって、息子がいじめられてることが最大の問題だと思っていましたが、長年父を許していなかったことの方が、よほど大きな問題だったという気がします。息子の問題のおかげで父と和解できたんだと思うと、息子の問題があってよかったのかな、という気すらします。」

 こんなことをのたまう親は尊敬もできませんし感謝もできません。でも「鏡の法則」に則ると、私が親を尊敬し感謝しないと、私に子供ができたときその子供がいじめられるわけですね。なんて理不尽な法則!

 いじめというのは当事者にとって生死に直結した問題です。子供にとって学校というのは世界の大部分を占めるものであり、そこでいじめられることは“世界は地獄”ということですから。数少ない逃げ場である家でも、こんな親がいたら絶望してしまうでしょう。

4.いじめはなくならない

息子「ねえ、お母さん聞いてよ!」

A子「どうしたの?何かあったの?」

息子「C君知ってるでしょ。実は昨日、C君に公園でボールぶつけられたんだ。」

A子「あっ、あー、そうなの。C君って、あなたを一番いじめる子だよね。」

息子「さっき公園から帰ろうとしたらC君が公園に来てさー。で、『いつもいじめててごめんな』って言ってくれたんだ。」

A子は「そうだったの!」と言いながら、まるで奇跡でも体験しているような気持ちになった。こんなことが偶然起きたとは思えなかった。そして、心から感謝の気持ちが湧いてきたのだった。

 いちいち引用するのもアホらしくなりますが、「鏡の法則」では簡単にいじめが解決します。こんなに簡単にいじめが解決するなら、いじめで自殺する人なんていませんから…。この話を「いじめはA子の被害妄想だった」とか「A子がいじめを認識しなくなった」と(ネタして)解釈しているのを見かけましたが、そう思いたくなるほどご都合主義です。
 いじめはなくなるように努力するべきものですが、しかし人間が自分よりも(色々な意味で)弱いものを虐げることで優越感を得、快感を覚える生き物である以上、現実になくなるものではないでしょう。
 だからこそいじめを軽いものと捉えずに慎重に扱う必要があるのです。

5.何がもっとも問題かと言えば…

 私が「鏡の法則」周辺を見渡してもっとも問題だと感じたのは、これに対する「感動した」という声です。「読んだ人間の90%が涙する」というのは明らかに言い過ぎですが、決して少なくない数の賛同の声が寄せられています。
 つまり、「鏡の法則」はいじめ問題を矮小化してしまっているのが(私の感じた)大きな問題ですが、それと共に、これに感動した人間もまたいじめ問題をこの程度のことと捉えてしまっているということではないか、ということです。いじめの深刻さをある程度以上理解している人なら、こんな話で感動できるとは思えません。

 もし本当に「鏡の法則」で90%の人間が涙したのであれば、私にとってはその事実こそが泣ける話です。

6.その他のツッコミ

 いじめに関することのみ書くつもりでしたが、ついでなので他の部分にも。

 この無駄に長い話を一文でまとめるなら「感謝することが大切」となるでしょう。しかし“感謝する”ことがそこまで最重要視しなければならないものなのでしょうか(内容的に「感謝すればなんでも上手くいく」というものなので、“感謝する”ことを最重要なものとしているのは確かでしょう)。“感謝するべきことには感謝する”のは当然ですが“批判するべきことには批判する”のも大切でしょう。
 これに感動したと言っている人たちは、親から虐待を受けた人にも「親に感謝しろ」と言えるのでしょうか?DVを受けている人に「夫に感謝しろ」と言えるのでしょうか?私にはそんな残酷なことは言えません。虐待までいかなくとも、親を恨んだり非難している人は多くいます。そういったものには間違ったものもあるでしょうが、正当なものもあるでしょう。簡単に「親に感謝することは大切」と言える人は、良い親のもとで育った幸せな人間だと認識するべきでしょう(私もその一人ですが)。
 この辺については「「嫌い」に向き合わないA子が嫌い - 「鏡の法則」について(2)」(みやきち日記)が参考になります。

 フィクションとしての出来にも疑問です。多くの人が感動したというA子と父親との対話ですが、この手の「断絶した親子関係の修復」というテーマは腐るほどあります。
 例えば映画「父の祈りを(原題In the Name of The Father)」では、“免罪”というテーマに絡めながら親子のすれ違いと尊敬に値する父親をしっかり描き、それ故に息子の父を思う気持ちに説得力が生まれています(でもこっちは実話をもとにした内容)。しかしそれらの作品と比べると「鏡の法則」はあまりにチャチな内容です。
 いったい皆、どういった作品を観て(読んで)いるのでしょうね?もっともこの辺は、“家族”をテーマにした作品では漫画「ありがとう」(山本直樹)が一番好きな私だからそう思うのかもしれませんが。