「いじめ自殺」について今考えるべき事

 以前「鏡の法則」に対して“いじめ”の視点からの批判を書いたこともあり、今アチコチでとりあげられている「いじめ自殺」について書いてみようかと思います。

“いつ”・“何を”考えるか

 この話題ではいじめに関わった教師や学校の対応などがとりあげられバッシングされています。それらは当然批判はされるべきですが、果たして今それらに対してばかり追求の眼を向けるべきことでしょうか。
 いじめを率先しているような教師が居ることは初めからわかりきったことで、教員免許更新制にしようがどうしようが一定の割合でそういった教師は存在し続けるでしょう。学校の対応も昔から何も変わらないものであり、いじめの無い学校なんて(全生徒数人の学校以外)ありえないとわかっていても、ある意味聞き慣れた言葉でしかありえません。そもそもいじめによる自殺が騒がれていること自体、「何を今更」と思わざる得ません。
 今バッシングが加熱しているのは、これまで運良くいじめの当事者とならなかった人びとが目を背けてきたことを目の前に突きつけられたということでしかないのではと感じます。

 いじめの問題を「いじめる側をどうにか(退学とか)すれば良い」と一蹴するのは短絡だと思います。ある集団ではいじめられる側の子が、別の集団ではいじめる側に回るというのはよくあることです。また、学校の中ではヒエラルキーの頂点にいながら、学校外(特に家庭)では虐げられる側だったり、特殊な家庭環境にいる子というのもよくいます。いじめる側を処分すれば済む、という考え方は、本来救済の対象となるべき子までも突き落とすことになりかねず、特に教育という枠組みの中では避けるべきと考えます。いじめは特殊な人間がおこなう特殊な行為などではなく、誰もがいじめる側にもいじめられる側にもなり得るということを考慮しなければなりません。
 また、「いじめを黙認する人間も同罪だ」というのは確かにそうなのですが、それを断罪するのは難しいでしょう。いじめを止めようとすることは、当然ながら高い確率でいじめを受ける側に回ることを意味します。いじめを黙認するなというのは、いじめられろと言うに等しいことです。自らが同じ立場に立った時にいじめられる側に回ることを覚悟してそういった発言をしている人が果たしてどれだけいるでしょうか。自らの身を第一に守ることを責めることは難しいことです。

 いじめはなくすよう努力するべきですが、同時になくなるようなものではないことも認識しなければなりません。なにせ会社などのほとんどが成人によって構成される集団でもおこり得るのがいじめであり、未成熟な子供が集まる学校ではなおさらなくなるものではないでしょう。こればっかりは、人間が人間という醜い生き物である以上避けることができないものです。
 いじめをなくすことは、長い時間(それこそ数十年数百年)を掛けて考えじっくり実践していく以外に方法は無いでしょう。少なくとも、今わかりやすい“敵”を叩いたり、空想のようないじめ解決法を提案することは、いじめについて考え自分のできることを果たした気にさせるだけでしかないと考えられます。

どうやって“知る”か

 では、今すぐ考えなければならないこととは何でしょうか。それはいじめられている子をいじめから遠ざけることです。現実にいじめから死を選ぶ子がいる以上、これは今すぐに求められることです。

 そのためにはまず、いじめられている子がなんらかの方法で訴えることができる環境が必要です。
 しかし、訴えに対する報復が一つ目の問題としてあります。つまり、いじめを“チクった”として、さらに過激に、かつ陰湿ないじめがおこなわれることです。これを避けるためには、いじめの訴えを真剣に聞き入れられ、訴えた時点でいじめから逃れられることが不可欠です。

 二つ目の問題はもっと深刻なもので、いじめられている当事者にとって、いじめられていることはとても恥ずかしいと思ってしまうことです。
 言うまでもなく、多人数による一方的な身体的・精神的暴力はただひたすら理不尽なもので、本来恥じ入る必要はありません。しかし、いじめとは単にいじめる対象に苦痛を与えるだけでなく、いじめる対象の自尊心を徹底的に破壊することが一つの目的なので(そこからいじめる側が優越感を得たりするのでしょう)、これを覆すのはなかなか困難でしょう。
 これを助長しているものとして、根強く存在する「いじめられる側にも問題(または「原因」や「責任」など)がある」といった主張があると思われます。この手の主張は中立的な立場を装っているのでタチ悪いですが、意味のない主張です。当たり前ですが、多人数からの一方的な暴力を受けるにふさわしい問題などありません。問題があるかないかと言えば、問題の無い人間なんていません。しかし、こういった主張から「いじめられる子はなんらかの問題を抱えた問題児」という偏見が生まれ、よりいじめられる側を追いつめることにもつながるでしょう(被害者側に一定の責任を求めようとすることは性犯罪被害の問題と近いかもしれません)。
 こういったことから、いじめられていることを訴えさせることは難しいと考えられます。親や友人に自分の恥ずかしい(と思いこんでいる)ことを訴えるのは非常に苦しいことです。親には「心配をかけたくない」といった思いや反抗期などを含めた複雑な感情を抱いている場合が多いですし、友人には巻き込みたくないといった配慮や自分に対する失望を恐れることなど、さまざまな困難があります。

どうやって“逃がす”か

 一つ目のステップである訴えを求めることの良い方法を見いだせないまま、具体的にいじめから逃れる方法について考えてみます。

 私がとりあえず今挙げられるものは、“不登校”しかありません。いじめがおこなわれる現場である学校へ行かない、これがもっとも確実な方法であり、今すぐできる方法ではないでしょうか。また、いじめを訴えた後の報復を避けることにもなります。

 しかし、昔と比べれば大分変わっただろうと思いますが、今なお“不登校”が否定的な意味合いで受け取られていることに変わりありません。これを変えなくては不登校を選ばせることはなかなか難しいでしょう。
 そのためにはまず、親は自分の子供がいつ不登校になってもかまわないという覚悟を持つこと。子供が不登校になって慌ててしまい、焦りから不登校やいじめられていることを責めるような言葉を言ってしまうと、子供を極限まで追いつめることになります。また、教師は学校へ行くことを勧めるべきではないでしょう。いじめという問題が解決しないままの教室に戻れと言うことは、自殺を勧めていることと変わりありません。
 (書き忘れていたので追記)不登校はいじめから逃れ自殺という道を選ばないための当然の権利、という認識を広めるべきだと考えます。

 一方で、不登校が進学や就職において不利に働く(特に高校での不登校)ことは容易に想像できます。そういった個人ではどうしようもないハンデを認識しながら不登校を勧めるのは無責任ではないかとも感じます。また、進学や就職を無視したとしても、現実に学校教育を受ける権利を放棄しなければならないというデメリットもあり、いじめの回避方法を考えると同時に、それをどうやって補うかという問題も考えていかなければなりません。
 例えば学校ではなくフリースクールなどに通うといった方法があります。しかし、どちらが良い悪いといった話ではなく、学校とフリースクールは違うものであり、いじめがなければ本来通うはずだった学校にいくことができないことは問題として残り続けます。
 これらのことはやはり、社会を構成する私達一人一人が考えるべきことでしょう。

 いじめ問題について考えなければならないことはいくらでもあります。いじめは、おそらく人間が社会を形成し始めた時から存在するものであり、今なおなくなっていないものです。今いったい何度目の“ブーム”なのかは知りませんが、これをせっかくの機会と捉え、叩きやすいものを叩いて終わらずに、長期的視点で考えるべきものと今すぐ考えるべきものとに分けて徹底的に考えるべきだと思います。