tasoiさんへの再応答 (1)

kurotokage2007-07-16


 遅くなりましたが、ID:tasoiの、kurotokageさんとの話の続き。への再応答です。長くなるので分けます。

 まず本題の前に。tasoiさんは私がはてなアンテナに登録しているブログのコメント欄でもよく見かけるのですが、どうにもそのスタンスに疑問を感じることが多々あります。しかし、横からいきなり割り込むのはどうかという思いから関与しませんでしたが、せっかくの機会なので思う所を書かせてもらいます。

 tasoiさんのコメントやブクマコメントでよく書かれているのは、「バランスが大事」・「程度が大切」ということです。そして相手の主張がバランスを欠いている・程度を考えていないとして批判されていたり、逆にバランスがとれている・程度を考えているとして賛同していたりします。

 「バランスが大事」・「程度が大切」というのは、もう全くその通りです。しかし、はっきり言えば、それは誰もがわかっていることでもあります。
 「いきすぎたジェンダーフリー教育はよくない」・「過度の〜はよくない(思いつかなかった)」とか、そんなことは言うまでもないことであり、「地球は青い」・「夏は暑い」・「セガサターンは最高の家庭用ゲーム機」といったことと同じ、大前提となることです。つまり、「バランスが大事」・「程度が大切」と言うことは、何も言っていないことと同じです。
 問題は、初めからバランスのとれた主張は用意されていない・程良い程度を提示してくれる神様は存在しない、ことです。それらは自分達で見極めていくものであり、その作業こそが大事だ、と私は考えています。

 人間が一人しかいなければバランスなんて必要なく、一人で好き勝手すれば良いわけで、二人以上になって初めて両者の意見の違いからバランスを探る必要が出てきます。その中でバランスを見極める作業とは、ひたすらに“対話”しかない、異なる主張をぶつけ合い研磨する先にしかないでしょう。バランスや程良い程度というものは、そういった対話の果てにしか存在しないと私は思っていますが、tasoiさんはまるで初めからそれらが存在しているとして振る舞っているように感じます。

 tasoiさんは“極論”という言葉をよく使いますね。tasoiさんの“極論”はずいぶんと幅が広いなぁ、と感じますが、それはそれとして、対話の中において“極論”がそれほどダメなのでしょうか。2つの異なる意見をぶつけ合う時に、初めからある程度のバランスを考慮した主張を持ち出すことが、果たして可能なのでしょうか。
 問題となったバナーから例をとれば、共謀罪の賛否を問うとき、共謀罪に完全に反対するというのは別の方向から見れば“極論”となるでしょう。しかし、共謀罪によって自分自身が捕まる可能性をも考慮している人達にとっては、共謀罪反対は“切実な願い”です。それこそ一歩も譲ることのできないほどの。逆に共謀罪がなければ治安を保てないと考える人にとっては、共謀罪の現行案の完全な実施が“極論”であっても、やはり“切実な願い”なのでしょう。ここに“バランスを考慮する”という余裕があるでしょうか。それは自分自身を当事者としない立場だからこそ言えることではないでしょうか。
 私は対話という時点において、“極論”を持ち出すことは問題ではないと考えています。その時点ではありもしないバランスを考慮するよりも、お互いの“極論”をぶつけ合うことから始めなければ、とりこぼしてしまうことが沢山あるのではないでしょうか。

 下(http://d.hatena.ne.jp/kurotokage/20070716/1184593938)に続きます。