光市事件雑感
光市事件に関する私の考えはだいたい3ヶ月前のエントリー(http://d.hatena.ne.jp/kurotokage/20070624/1182692975)でほぼ語りつくしたのですが、最近の流れについて思うところがいつくかあるので書いてみます。
というかあのエントリーがあちこちで紹介されていて有り難く思うのですが、とあるカトリック系教会のサイトで紹介されていたのが一番驚きました。
マスコミとか
マスコミ批判なんて今更すぎる気がしますが、今日(9月9日)放送された「たかじんのそこまで言って委員会」を少し見ていて、あまりの無責任ぶりにあきれてしまいました(この番組はちょうど昼飯どきにやっていて時々見るのですが、いつもムカついて途中で見るのをやめてしまいます)。
橋下弁護士に対する批判はすでにあちこちで書かれているので省きますが、その他の司会や出演者にもマスコミとしての自覚があるかどうかとても疑わしいです。
司会(たかじんともう一人)はしきりに番組へ出て説明することを求めていました(評論家の宮崎哲弥さんも同調)。
関西ローカルのバラエティ番組に出るのがそんなに大事なんでしょうかね?というのは置いておいて、出演者が皆橋下さんを支持しているなかで、そんなところにのこのこ出て行っても一方的な展開になるのは目に見えています(こういう番組は“声の大きい者勝ち”ですし、都合良く編集される可能性もあります)。なら“戦略”として出ないのは当然。まるで自分たちは公正だとでも言いたげな態度には苛立ちを覚えます。
そもそも番組でとりあげる以上、それについて詳しく調べることが求められるはずですが、それも出来ていない様子(弁護団には死刑存置派もいるのに、未だに死刑反対のためだと言っていたり)。マスコミとしてやるべきことができていないのに、弁護側にばかり説明を求めるとはどういうことでしょう。それ以前に、安田弁護士にこんな番組へ出る暇はないでしょうが。
他の出演者も同様。彼らはギャラを貰ってTVで発言する以上相応の責任があるはずですが、まるで自分たちが一般市民と同じ立場であるかのような振る舞いはびっくりするものがあります。
まあ、一番びっくりするのは、こんな番組での煽りに乗せられて懲戒請求をする人がいることかもしれませんが。
説明責任とか
今、弁護側の説明責任というものに焦点が当たっているようですが、果たして刑事事件において世間に対する説明責任はどれほどあるのでしょうか?
例えば、一審・二審の弁護人と現在の弁護団の方針が何故変わったのかを理解してもらうには、事件の詳細を事細かに説明する必要があるでしょう。しかし、特に性犯罪に関するものだと、被害者がどのような被害を受けたかを詳細に報道することは、まさに“セカンドレイプ”だと言えます。さらに被告の性嗜好に内容が及ぶと、プライバシーの侵害という問題もでてきます。
本来マスコミはこういったことについて慎重になるべきです。それこそが“セカンドレイプ”を緩和するために必要なことの一つだと考えています。しかしこの光市事件では真逆のことがおこっているのではないでしょうか。
私は、今の弁護団による初めの記者会見も必要なかったのではないかと思っています。被害者の尊厳や被告のプライバシーに関することを、“知りたいだけ”の世間に向けて発表することに何の意味があるのでしょう。そういった情報を知らなければ、私達は司法を監視することができないのでしょうか?
改めて、“何のための説明責任か”を問う必要があるでしょう。
世間の声とか
今回のバッシングでよく聞かれたのが“世間の声”とか“庶民感覚”といったものです。いやもう、うんざりしますね。
懲戒請求がおこってから、web上でいくつもの懲戒請求に対する批判の記事が書かれました。それらは弁護士などの、この件に関しては一般庶民とは言えない人によるものも多くありましたが、私も含め一般庶民によるものも多くありました。彼らにとって、それらはどのように映っているのでしょうね?
“世間の声”といったものも大切だと思います。近代の国家観から言えば、そういったものが無視されるべきではないでしょう。しかし、数学の証明問題で「世間の声によれば」とか書くでしょうか?スピード違反で捕まったとき「庶民感覚で考えれば」とか言うでしょうか?
そういった曖昧模糊なものは、あくまで配慮するべき要素の一つであり、直接何かを決定する上での根拠としては弱い、まして司法の場においては超弱すぎるとしか言えません。
結局単なる言い訳でしかないのだろうなと感じました。自分たちは一般庶民だから、マスコミの情報のみを頼りに感情的にものを言ってもいいのだ、という。本来逆ではないかと思うのですけどね。自分たちが“世間”を形成する一員なのだから、マスコミに煽られず冷静にならなければならないと。タマゴが先かニワトリが先か。
“世間の声”などは、一部の権力を持つ者に向けて使われるべきものでしょう。しかし今は弱い立場にある被告を弁護する弁護側に向けられている。これは、多数派という強者が多数派であることに胡座をかくような、傲慢なこととしか思えません。
ようは「俺の主張の正当性は多数派であることに裏付けられている」ということですよね。全く下らないですね。