機械への例えが何を意味するのか

kurotokage2007-02-05


 あいかわらず時事問題には反応が遅いことこの上ありませんが(まずは日曜ブロガー状態をなんとかしないと)、今回は今世間を賑わせている柳沢厚生労働大臣の発言について。

 私としては、この手の発言は昔からいくらでもなされてきたものでしょうし、さっさと柳沢さんが辞任して幕引きし、こんな発言にはマトモにつきあう必要がないという態度が示されればそれでいいと思っているのですが、当の本人がしがみついている以上こじれるのはしかたありませんね。
 私が今回の件で気になったのは、web上での反応、特に擁護とまではいかなくとも、「たいした失言ではない」という意見が多く見られたことです。そのこと自体は厚生労働大臣という重要なポストの人間があのような発言をする現状では、まあ不思議ではありませんが、「あれ、この人が?」というブロガーの方がそのような反応をなさっていることに驚きました。

 そして今回は、特に疑問に思ったid:good2ndさんのエントリー「機械にたとえたのって、そんな沸騰するような話ですかね?」に対して絡んで(?)見ようかと思います。

何が何に例えられたのか

 まず、“例え”とは文章で何かを表現するための手段でしかなく、重要なのはその例えが何を表現しているかということです。なので「機械に例えることの是非」という問いは、それだけでは答えようのないものです。
 また、「人間を機械に例える」というだけではあまりに大雑把であり、“どのような人間(のどのような部位が)”・“どのような機械に”例えられたかを具体的に問わなければなりません。

 では、件の発言は「どのような機械に」例えられたのか。
 文脈から考えると、「人間は突き詰めて考えると機械である」といった、いわゆる“人間機械論”として機械に例えたとは考えられません(もしそうなら特に異議はないし、個人的に興味のある分野ですが)。ここでの“機械”はそのような観念的なものではなく、私達が日常で接する機械、特に工業用機械、もっと具体的に書けば“レーザー加工機”や“テキスタイル用インクジェットプリンタ”や“多色自動シルクスクリーン印刷機”といった“物を作る機械”と考えるべきでしょう。

 次に“何が”例えられたのか。これは明確に“子供を産む女性(またはそのための器官)”となりますね。

 ということで、「子供を産む女性を工業用機械に例えること」が問題か否かを考えなければなりません。

例えられることによる評価とそれへの合意

 工業用機械と人間との差は何か。「バカの例え話禁止」という名言があるように、何かを別の何かに例えるには、それぞれの違いを理解したうえでおこなわなければ意味のないものになります。

 工業用機械はただひたすら製品を製造するためだけに存在します。製造ができなくなったそれは役割を果たせなくなり、工業用機械とは呼べないものとなります(壊れた機械に趣を感じることもありますが、それはオブジェやアートとして捉えているだけとみるべきでしょう)。また、工業用機械は時間当たりの製造数・必要コスト・製造物の品質・故障率など、物を作る上での性能のみで評価されるもので、その基準によって高性能機・低性能機・欠陥機などにわけられます。
 それに対し、人間はただ人間として生まれただけで人間であり、死ぬまで人間でありつづけることが人権によって保障されています。人間であるための存在意義は必要なく、人間そのものを優秀な人間・劣等な人間を決定する基準はありません。

 機械と人間にはそのような差がありますが、だからといってそれだけで人間を機械に例えることが必ずしも悪いとは言えないでしょう。
 具体例としては、“労働者”を“機械”に例えること。これはある程度受け入れる必要があると思います。労働者は自身の労働力を経営者に商品として売っているわけで、企業の利益を生むための“機械”として捉えられ、そのための能力という基準で評価されることに合意していると言えます(ただ、あくまで売っているのは労働力だけで、それの範囲を超えれば不適切ですが)。
 また、“スポーツ選手”。彼らは“記録”という単一の基準で評価される世界に身を置く時点で機械に例えられ、評価されることに合意しているわけです。

 では、“子供を産む女性”は、子供を産むことについて評価されることに誰と合意を交わしたのでしょう。
 労働者は勤務時間を終えれば、スポーツ選手は競技から離れれば、その評価から逃れることができますが、女性は基本的に(生物学的な意味での)女性という立場から逃れることができません。

機械に例えるなら“欠陥”という評価はつきまとう

 “子供を産む女性”を“工業用機械”に例えることは、“子供を産む数(製品を製造できる数)”という基準で評価するということを意味します(“優秀な・健康な子供を産む(品質の高い製品を製造する)”という基準もありえますが、それはそれでまた別の問題が生じますし、少子化問題についての発言なので、“数”と見るべきでしょう)。
 そしてそのように評価するということは、沢山の子供を産む女性は“優秀な機械”とプラスの評価をされる一方、一人しか産めない女性は“低性能機”というマイナスの評価を、子供を産めない・産まない女性は“欠陥機”という評価を必然的に受けることになります。

 男である私が直接的には当事者ではない“子供を産む”ということについてアレコレ書くのはなんなので、もうちょっと当事者性を持たせるために、「人間は会話によって言葉を伝達する機械だ」という表現で考えてみます。この場合の機械は電話機やCDプレイヤーのような音声を発する機械ですね。
 そうすると、流暢に会話をできる人間なら高性能機、言語障害を持った人間は欠陥機となるでしょう。吃音症の私はさしずめ壊れたレコード。私は自分のそれを“欠陥”として捉えていますが、自分で自覚するのと他者から評価されるとでは大きく意味が違います。
 それが会話を中心とした職業である場合なら、苦しくてもそのような評価をある程度は受け入れる必要があるでしょう。そのような職を自ら選んだ時点でそう評価されることに合意したのですから。しかし、いったんその立場を離れたら、“欠陥機”という評価は単なる侮辱でしかありません。“吃音”という事実は決してそれだけでは“欠陥”ではないのですから。

 自らに障害や病を抱える人は、自分のその部分を機械に例えてみるとわかりやすいのではないでしょうか。
 そこから逃れることのできない立場の人間を機械に例えるということは、機械であれば“欠陥機”にあたる人間を、ハッキリと言えば“差別”していることになります。

問題は例えではなくそれによって表現される内容

 つまり、柳沢さんの発言は、“子供を産む女性(またはそのための器官)”を“工業用機械”に例えたことで“女性”を“子供を産む数”で評価し、“子供を産めない・産まない女性”を“欠陥機”としたものです。

 これは深読みでもなんでもなく、それらを置き換えるということは自動的にそのような意味を持つということです。本来多様な意味を持ち、多彩なものに例えられるはずの“子供を産む女性”をわざわざ“工業用機械”に置き換えれば、そのものの持つ意味を限定し、その例えから受け取れる表現も限定されます。
 また、柳沢さん自身がその発言において「機械と言っては申し訳ないが、機械と言ってごめんなさいね」と二度も断りを入れいることから、その例えが少なくともキワドイものであることを自覚していると見るべきで、にもかかわらずあえて例えたということは、その例えに重要な意味を持たせる意志を持っていたと考えられます。一応の慎重さを持った発言であることを考えると、うっかりミスと捉えることの方がムリがあります(そういう意味では“失言”という表現は不適切なのかも)。

 ある特定の人間(この場合子供を産めない・産まない女性)を間接的にでも侮辱する発言を、居酒屋でくだをまくオッサンではなく政府中枢に立つ人間がおこなったこと、これを問題とし責任を追及することがそれほど不思議なことなのでしょうか。むしろこれを野党議員が追求しなければ、侮辱された人間の意志をどうやって政治の場へと持ち込めるというのでしょう(次の選挙まで待てとは言わないでしょう)。

 そして、good2ndさんの

そうでないなら、喩えがいいとかダメとかいうことより、本題を議論してほしいです。本題を。

という表現にも疑問を感じます。
 確かに、少子化問題について考えたいのであれば、柳沢さんの例えについての問題は枝葉末節なことかもしれません。しかし、子供を産めない女性・産まない女性が社会的にどう評価されるかについて考えている人間にとっては、それが別の議論から出てきたものであっても、いったん世に出された以上問題としなければならないわけです。
 単に視点にズレがあるというだけなのに、一方を本題・一方を枝葉とするのは、あまりに傲慢な態度ではないでしょうか。少なくとも批判されるべきは、別の問題を作り出してしまった柳沢さんではありませんか。

ついでに

 以下は蛇足です。

 柳沢さんの発言に対し、「一度の失言で辞任を求めるのはどうか」といった意見もいくつか(good2ndさんではなく)みられました。
 まず、失言であるか否かは上で書いた通り明確な意志を持って表現したと考えられる以上、失言とは言い難いと思います。そして、それは「一回だけ」と言えるものでしょうか。以前、森元首相は「子供を一人もつくらない女性の面倒を、税金でみなさいというのはおかしい」といった子供を産めない・産まない女性に対する問題発言をおこなっています。その時柳沢さんは、その発言をどう感じ、それに対する批判をどう考えたのでしょうか?過去何度も繰り返されてきたであろうそのような発言をみていれば、それを“一回”とする捉え方はおかしいと感じます。
 そもそも、回数の問題でしょうか?もし「キモオタは全員死ねばいいのに!このウジ虫どもめ!!」とか「日本はアメリカ様の奴隷であり、どんな命令にも忠実に従います」とか「もし私がデスノートを拾ったら、キラとなって美しい国づくりを実現したい」といった発言がなされても、「一回の失言で」と言えるのでしょうか。回数よりも内容に注目するべきだと思います。
 まあ私は私で「たかがビラ配りやポスター貼りで長期拘留される人間には冷たいのに、大臣という重要ポストにいる人間には何故こんなに甘いのだろう」という考えが底にあるのですが。

 あと、柳沢さんの発言が、少子化という社会問題を個人の努力の問題へと帰結させるという点で問題なのは、大前提です。機械に例えたことを問題とする人間が、その辺りを問題と思っていないとは考えるべきではありません。

 最後に、他にも似たようなのエントリーを挙げているブロガーはいるのに、なぜわざわざgood2ndさんを名指しして反論したか。それは私が普段からgood2ndさんのブログを読み、その文章に価値があると考えており、だからこそとても引っかかったからです。

 急いで書いたので色々取りこぼしがあると思いますが、以上が柳沢さんの発言に対する私の考えです。