「バタフライ(5)」の感想

kurotokage2007-01-06


バタフライ 5 (バーズコミックススペシャル)

バタフライ 5 (バーズコミックススペシャル)

 15巻にもおよんだ「DARK EDGE」を完結させた相川有さんの、それと同時期に連載されていた「バタフライ」の最終巻について感想を書きます。
 私は「聖痕のジョカ」(原作:大塚英志)の頃からこの作者の作品を追っかけていましたが、「バタフライ」にはそういった“作者買い”というだけでなく(もちろんこのマイナーめの作品に出会えたのはそれのおかげですが)、今作のテーマに非常に興味を持った上で読んでいました。なので、他の作品よりももっと、どのような結末を迎えるのかが気になっていました。

 この最終巻は、web上で「まん延するニセ科学」が流行する少し前という良いタイミングでの発売でした。そう、思いっきりその辺の問題や、さらに“犯罪報道”の問題とも絡んでくる内容です。
 そういった問題に関心のある方に読んで欲しい作品です。

※以下、ネタバレを含めて書いていきます。


 この5巻自体は、ちょっと駆け足すぎるという印象です。ページ数が足りないためか、説明的なセリフで済ませてしまう場面が多く、漫画として残念なところがあります。
 犬翠との対決や上羽の正体が判明する場面は倍くらいのページ数を使ってじっくりと展開し、6巻で完結させるのがちょうど良かったのではないかという気がします。まあ、その辺は作者だけの問題ではないのでしょうけど。

 しかし物語そのものは実に秀逸です。
 犬翠との対決は読んでいて本当にドキドキしました。…といってもどちらが“勝つ”か?ということよりも、“霊は存在しない”ということが大前提となっているはずのこの作品世界で、もしかして犬翠は本当に霊能力者か?と思わせる演出、それがとても上手いものでした。また、それが“どちらが勝つか”ということに繋がっているのが見事です。このメタな視点で読み手を楽しませるのは、相当な技術ではないかと思います。

 犬翠の能力の正体は人の願望だけを読み取ることができるという勘の良さ(“勘”だけで説明するのはちょと無理な感じでしたが、仕方が無いところでしょう)、これが一つの今作のテーマと深く関わるものでした。
 “子供を突き落としたと疑われた銀次の兄の首を絞める無数の手”という犬翠が見たイメージ、それは霊などではなく、その事件の報道を見た視聴者の願望そのものであるということ。

 私達は犯罪報道を見た時、被害者を哀れみ加害者を憎みます。そして容疑者が挙げられた時、その容疑者を犯人と決め付けバッシングします。本来容疑者はその時点では“白”であるはずなのに。実際に容疑者と犯罪者とを区別して犯罪報道を見る人はどれほどいるのでしょう。
 私は“疑わしきは罰せず”という原則から犯罪報道の容疑者は匿名にするべきだと考えていますが、一方で、世間話などでの“容疑者=犯罪者”視などはあくまで個人の領域なので、アレコレ言うべきでないと考えていました。
 しかし、“世論”とはそういった“世間話”などの個人の領域での話題が積み重なったという側面もあるのではないか、と最近思います(報道の役割の方が大きいとは思いますが)。しかも今では誰でもブログなどで個人の意見を披露できる環境にあり、その辺の境界があいまいになってきていると言えるでしょう。というか、個人的にこの辺は“死ぬ死ぬ詐欺”の騒動で強く身に染みたことです。
 少し前の話題ですが、光市母子殺害事件で多くの人が報道内容のみに基づいて容疑者の罪状を決め付け、死刑に異議する弁護士をバッシングしました(極刑である死刑に異議を唱えないなら、何のために弁護士がいるのでしょう)。その“多くの人”の中には、普段報道を“マスゴミ”と呼び、激しくバッシングする人も含まれていたようです。何故こういう時は疑わないのでしょうね?
 光市母子殺害事件はある意味極端な例ですが、似たような光景は様々な事件についても見ることができます。

 …激しく話が逸れましたが、犬翠との対決の場面は、犯罪報道とそれを受け取る側の抱える問題を鋭く抉る内容だったと思います。

 そして、作中常に中心にあった“銀次の兄は本当に子供を突き落としたのか?”という謎。これを最後の最後まで謎のままとして突き通したことに拍手喝采。最終巻でも銀次の母が作り出した兄の霊が“殺していない”と答える場面が出てきますが、これも結局母の願望でしかないということ。
 誰でも“真実”を求めようとするものです。しかし、本当に得られる真実なんてごく僅かしかありません。世の中なんてわからないことだらけです。だけどわからないからこそ自身の願望を真実として隙間に埋め込んでしまう(歴史認識についてよく見られることですね)。
 この作品のテーマを集約したセリフが出てきます。

答えがないならないままでいい
真実をでっちあげるぐらいなら俺はイライラしたまま生きていく

 一方、これまでひたすら“幻想”を壊し続けてきた銀次は、もう他人の幻想を壊さないと決めます。幻想を壊したところでそこに真実は無いということ、また、幻想を抱くことによって幸せを得られるのならそれで良いじゃないかと。これも非常に示唆的ですね。
 特に前者はタイトルの元となっている荘子の「胡蝶の夢」と関係することだと思います(またかよ!)。私達が現実と思っているものは、単に脳がそのように認識しているにすぎないもの。今目に見えているものも、脳が光の反射をそう認識しているだけのもの。私達は“現実に存在している”というある意味での幻想を信じなければ生きていくことはできない。んー、なんかズレていますが、そんな感じで。
 後者はそのままですね。現実だけを真正面から捉えて生きていくことはなかなか困難なこと。時には幻想に縋る弱さを認めたって良いのではないかと。

 ラスト、母親からこうあって欲しいというイメージと、そこから自身がこうあらなければならないというイメージとに囚われた上羽を、それを壊す(忘れる)ことによって救う銀次。見事な結末でした。

 さて、「DARK EDGE」も「バタフライ」も終わって、気になるのは次回作ですね。この作者は作品を重ねる毎にどんどんレベルアップしています。同時に独特の“軽さ”や“乾いた感覚”といった持ち味も失わないまま。期待したいです。