「ペルソナ3」の感想

ペルソナ3

ペルソナ3

 この作品は何故か発売前からかなりの注目を浴びていたようです。「女神異聞録ペルソナ」や「ペルソナ2罪」「罰」の時はこれほどではなかったように思うのですが、どういうことでしょう?
 まあ、そんなことはどうでもいいです。「女神転生」シリーズから分派したこのシリーズも一通りプレイしていた人間としては、当然チェックするわけです。

 まず大雑把な評価としては、「システム・物語共にイマイチ、でも見所は多い内容」という感じになります。
 それではまず、ネタバレのないシステム面について。

元ネタの殻を脱しきれなかった戦闘システム

 「P3」(この略称はどうしても「機動警察パトレイバー」の劇場版アニメを連想してしまうのですが)の戦闘システムは、「真・女神転生III〜NOCTURNE」(以下「ノクターン」)の戦闘システムを元にしています。
 「ノクターン」の戦闘システムを簡単に説明すると、相手の弱点を突く攻撃をおこなったり物理攻撃によるクリティカルが発生すると行動回数が増え、攻撃を無効にされたり回避されると行動回数が減る、というもので、これだけ見ると「P3」のそれとほぼ同じように感じます。

 しかし「ノクターン」が「P3」と大きく違うのは、行動順が自分ターン・敵のターンという分かれ方をし、行動回数が自分・敵各パーティごとに共通であることです。これによって自軍ユニットAの行動によって増えた行動回数の恩恵を自軍ユニットBが受け(本来行動順が回らないはずが回ってくる)、Aの行動の失敗のリスクをBが被ることになり(本来行動順が回るはずが回らない)、パーティ全体の戦力が重要視されることになります。また、攻撃をブロックする・される時にも行動回数に変動があるため、パーティ編成の時点で勝敗の5割は決定するような高い戦略性があります(スキルの分担と防御相性の組み合わせ)。
 対して「P3」の“ワンモアバトル”は、1ユニットの行動の結果がほとんどその1ユニットに帰ってくることになり、結果1体のユニット(つまり主人公)さえ強力であれば容易に攻略が可能となってしまう底の浅さがあります。
 さらにそれを助長しているのが、主人公が素早さの数値に関係なく(先手を取られた時以外)必ず一番始めに行動でき、1ターンに一度ペルソナの付け替えが可能であること、それと主人公以外の仲間ユニットが行動を指定できない(AIによるオート戦闘)、全敵ダウン後の一斉攻撃が強力すぎることです。これらによって多くの戦闘が主人公一人の行動で勝敗が決してしまいます。事実、序盤から終盤においてまで、主人公に4属性魔法スキルを使えるペルソナを各1体づつ、それに回復スキルと全体攻撃物理スキルを持つペルソナを各1体づつ用意しておけば攻略に困ることはありません(“タルカジャオート”・“勝利の息吹”・“ハイ〜ブースター”などがあればなお良し)。

 結局のところ、「ノクターン」の完成された戦闘システムを脱しようと改革を試みた結果、残念な結果に終わってしまったと感じます。
 ただ、これは仕方ないことだと思います。「ノクターン」のそれは、悪魔合体・スキル継承・仲魔の育成・難易度のバランスと絶妙に絡みついた“奇跡”であり(それが必然ではなく偶然であったのは「ノクターン」の戦闘システムを引き継いだ「DIGITAL DEVIL SAGA〜アバタール・チューナー」を見れば一目瞭然)、それに頼って保守的にシステムを固定化させればシリーズが先細りするのは明白、なんとか新しさを求めるのは当然と言えば当然です。しかし単品の作品として見た場合、未完成な戦闘システムだったと言わざる得ません。

 ちなみに仲間ユニットはバカすぎて話になりません。居ないよりは居た方がマシ程度(一斉攻撃要員?)、全ての行動を主人公一人でおこなうつもりで。ボス戦は主人公が回復と補助に務め、仲間はオートの通常攻撃オンリーで。

挑戦的な姿勢が見える“日常”の描き方

 戦闘システムの出来に対し非常に頑張っていると感じたのが、日常の学校生活をゲーム的に描こうとしている点。
 これまでの「ペルソナ」シリーズは、“ジュブナイル”であり“学園もの”という見せ方をしながら(あ、「罰」は違いましたね)、その実学校生活を描くことはほとんどありませんでした。しかし「P3」ではしっかりと学園生活を描き、それも単に物語上各キャラクターの生活を映画的に映すのではなく、TVゲームの文法で組み込んでいます。

 毎朝学校に通い、授業を受け(実際には授業のシーンはあまり出てこないけど)、放課後を好きなようにすごす。しかし試験前には遊びを控えて勉強し、一方クラブ活動や生徒会活動にも精を出さなければならない。いやあ、よく授業をサボり、試験前にも遊び、帰宅部で、生徒会活動なんてするはずもなかった私の高校生活とは天地の差ですねえ。
 …それはともかく、RPGでありながらこれほど丹念に“日常”を描いているとは驚きです。システムを把握しルーチンワークと化した中盤の中弛みすらも学校生活の“退屈さ”を表しているとも受け取れます。“日常”と“冒険”を描いた作品はこれまでもありましたが(古くは「ソーサリアン」?私はやったことないけど。FCの「ダークロード」やPSの「かえるの絵本」なんかもですね)、これほど“日常”を描くことに執着したRPGを私は他に知りません。いや、むしろこれこそ本来の意味での“RPG”と言えるかもしれません。

 この“日常生活”は、それだけなら単なる単純作業になってしまうところですが、戦闘パートとの切り替えがゲームとして上手くメリハリをつけられています(本来ならどちらも単調であるだけになおさら)。

シリーズ共通のテーマを表現した“コミュニティ”

 日常パートで非常に重要な存在となっているのが“コミュニティ”。これはまず、「ペルソナ」シリーズ共通のテーマである“ペルソナ(仮面)”をゲーム的に表現することに成功しています。
 「人は誰でも沢山の仮面を持っている」とかいうのが初代「ペルソナ」のセリフとしてありましたが、その言葉通り家族・友人・仕事場・彼女などによって様々な仮面を使い分ける、一人の人間が様々な側面を持つ、というのが一つのシリーズ共通の、タイトルとなるほどのテーマでした。
 「P3」では、主人公が様々な人達と関わり合い、それぞれのコミュニティを発展させていきます。しかしそれぞれの人物との対話において、何も考えずに受け答えしてもコミュニティは発展しません。それぞれの人物の性格からどういった答えが求められているのかを見抜き、適切に選択していかなければなりません。正に“仮面”を使い分けているという感じです(特にそれを強く感じたのが“塔”のコミュ)。実際、あれだけ多種多様な人間と付き合うには、我を通しているだけでは不可能でしょう。
 ゲーム的には単純な一問一答+αといった感じのしろものですが、これまでのシリーズではこのテーマをあくまで物語上でしか表現できていなかったので、高く評価したいです。
 また、単調な日常パートの中で、限られた時間でどう上手く各コミュニティを発展させていくかというジレンマを与えることにも成功しています。

 もう一つ、日常パートと戦闘パートとを繋ぐ存在となっていることも見逃せません。各コミュニティの発展度が主人公の扱えるペルソナの各アルカナ属性のレベルとなっていて、日常パートでせっせとコミュニティ育成に励めば戦闘パートで楽できるしくみになっています。
 これによって日常パートと戦闘パートが完全に分断されたものとはならず、日常と非日常の混在した世界観を表現できています。

 それはそれとして、私は“恋愛シミュレーションゲーム”をほぼやらないので(たぶんPSの「キャプテン・ラヴ」のみ)、その辺との比較ができないのが残念。

作品の性格や物語の進行と連動した秀逸なBGM

 BGMに関しては手放しで褒めることができます。「女神転生」シリーズとはもはや完全に別物となった「P3」のライトな雰囲気と上手く合致したポップな曲が中心となっています。ボーカルの入ったものも多いですが、決して邪魔にならない程度に抑えられています。
 また、一学期・二学期・三学期とBGMは変化していきますが、これが物語の進行にうまくあった変化となります。導入部ということでわりとおとなしめの一学期。物語的にもノリにのっている二学期は学校の曲が特にノってます。一転、深刻な雰囲気となる三学期は、学校の曲は神秘的に、寮やタルタロスのホールの曲は物悲しいものとなります(寮の曲はいくつかの曲を組み合わせてアレンジしたもの)。物語と上手く連動した一連のBGMは見事です。いやまあ本来BGMってのはそうあるべきですが。
 そしてシリーズ通してプレイしてきた人には、ラスボス戦のBGMは感動ものでしょう。

※以下、物語についてネタバレを含めて書いていきます。

“死”の描き方のマズさ

 上で書いた通り、シリーズ共通のテーマである“ペルソナ(仮面)”や“学校生活”はゲームシステムを通して描いており、評価できます。しかし、今作独自のテーマとなると、疑問が生じる内容です。
 近作のテーマを大雑把に書くと、“死と向き合うこと、そしてそこから導かれる生きることの意味”といった感じでしょうか。はっきり言えば荷が重過ぎると感じますが、恥ずかしげも無くそれに挑戦したことは評価したいですね。

 このテーマに気づかせるギミックとして、パッケージや序盤のムービーで登場したペルソナの存在が挙げられます。これまでならそこに位置するのは“皇帝”の「ヴィシュヌ」や“太陽”の「アポロン」などの“いかにも”なものだったわけですが、今回は“死神”の「タナトス」。およそ学園もの物語の主人公にふさわしくありません。
 まあ物語上の秘密などがそこには隠されているのですが、“死”というものを強く前面に押し出していたことには違いありません。この辺のプレイヤーに気づかせるためのギミックはなかなか上手いと感じました。

 中盤以降、主人公と共に戦う仲間達が次々と身近な者の死と直面していく展開は、一見“死”を感動させるための小道具として扱っているようであり実際そうなのでしょうが、今作のテーマ上は仕方が無いとも言えます。
 しかし、その“死”の描き方が決定的にマズいものでした。

 ある者は仲間や愛する者を庇って死に(×2)、ある者は信念を貫くするために死に、ある者は使命を全うするために、ある者は敵討ちを誓わせるような死。とにかくそのどれもがドラマティックで何らかの意味づけをなされた“死”です。
 しかし現実にそんな死に方はどれほどあるというのでしょう。日本人一億人のうち、意味のある死を遂げる人間が一体何人いるでしょうか?漫画やアニメではトラック(なぜトラック?)に轢かれそうになる子供を庇って死ぬ(死にそうになる)というシーンが不思議なほど、本当に不思議なほどよく出てきます。が、現実にそんな場面に出くわすことはほぼありません。日常の死というのは老衰だったり病気だったり事故だったりと、少なくとも当事者やその近親者以外には何の意味もドラマ性も無いものです。「P3」で描かれるような“英雄的な死”は、日常にはほぼありません。

 これがそこらのヒロイックなRPGであれば当然のこととして受け止めることができるのですが、「P3」はせっかく丹念に“日常”をゲームシステムを通してまで描いた作品です。さらに“仮面”と並んでシリーズ共通の象徴である“タロットカード”を、“人生”そのものを意味するものとして物語に投影するという無謀なことに果敢にも挑んでいます。
 にも関わらず、“日常”と完全に分断された“英雄的な死”をなぜこれほどまでに描いてしまったのか。一つくらいなら、物語を盛り上げるために、また“非日常”の一つの側面を描く上で必要なものとして受け止めることができるのですけどね(そういう意味で荒垣の死は必然性があった)。
 とにかく、今作独自のテーマである“死と人生”を描くための“死”の描写が、シリーズ共通のテーマである“日常(学園もの・コミュニティ(ペルソナ))”と、一方のテーマである“人生(タロットカード(これもシリーズ共通と言えるかも))”を台無しにしてしまったという印象です。これが私の感じた「P3」の物語の最大の欠点です。

メタフィクションとしての「P3」

 私にとっての「ペルソナ」シリーズは“ジュブナイル”であると共に“メタフィクション”でもあります。
 正確にはメタフィクションと呼べないとは思いますが、シリーズおなじみの“蝶”は荘子の「胡蝶の夢」の蝶であり、「1」も「2」も虚構と現実が入り混じった物語であり、メタフィクションに近い、またはそれを強く意識したものであることは間違いないでしょう。そういった作品が好きな私にとって、「ペルソナ」シリーズは注目する価値のある作品群です。

 しかし、「P3」はこの辺の色が妙に薄い。OPムービーでいつもの“蝶”が登場し、タイトルムービーでデカルトの「cogito ergo sumu」を使っていたりする(ちょっとイタい)くらいだから無関係ではないはず…と思っていたら、やはりエンディングでそれらしいものが。

 あのエンディングを素直に解釈するなら、ラストバトルで主人公は本当に死んでいて…ということなのでしょうが、それだけならなんということはないありがちな話です。むしろもっと大元のところで虚構と現実が入り混じっているのではないかと思えます。
 そもそも「P3」の物語や世界観はおかしな所がありました。2010年というごく近い未来で舞台も現実的、なのにアイギスというありえないほど(とかそんなレベルではない)高性能なロボット(しかも2000年に完成していることに)の存在や、人間に混じって戦う犬。さらにシャドウという全くよく判らない存在(ニュクスを呼び起こす存在となっているけど、ニュクス自体も“死”の象徴というだけでよくわからない)。そしてラストバトル後の「ワイルドアームズ2」のような一騎打ちの展開は本当に意味不明。コミュニティで築いた絆が力となって…、ってチープな少年漫画みたいです。

 以下、妄想。
 おかしいと言えば究極におかしいのは、何のとりえも無かったはずの主人公が、たった一年で成績は学年一位、異性を惹き付ける魅力を持ち、内面も漢気溢れる(?)人間に成長すること。人間はそこまで急激に変われません。もちろん「ゲームだから」と一刀にできることですが、そこそこリアルな学校生活を描きながら、こんな誰も送ったことの無い順風満帆な学校生活を表現するのは不自然でもあります。「こんな学校生活だったら良かったのに」という、正に妄想の産物のようなものです。
 実は、主人公の一生を縮小して一年の学校生活に当てはめたものが「P3」の物語ではないのかと。
 何も無いところから始まり(ゲーム序盤)、様々な方法で自分を磨き(各パラメータの育成)、老若男女問わず多様な人物と交流を持ち(コミュニティ)、共通の目的を持つ集団の中に身を置き(特別課外活動部)、自身の心の影と戦い(シャドウとの戦い、って「ゲド戦記」の「影との戦い」なのか)、歳をとって死を予感し(綾時のタネ明かし)、そして“死”と対峙する(ニュクス・アバターとの戦闘)。「P3」の物語は主人公が死の間際に思い出す走馬灯のような物ではないでしょうか。そう、まるで筒井康隆の「敵」のように。
 それを暗示するのがタロットカードの示す“人生”。そして主人公の眠りを見守るのがゆかりとかではなく、アイギスであること。2010年は実際に主人公が学生だったころであり、死は2070年くらい。その頃にはアイギスのようなロボットも存在しているかも。
 いや、むしろ人間としての人生を望むアイギスの夢だったというほうがしっくり来ますかね?

 えー、妄想が過ぎるので、この辺で終わります。
 あーっと、今、金子一馬さんはどうしているのでしょう。今作ではノータッチぽかったですね。まさか金子さんも独立するなんてことになるのでしょうか?