サヨクとウヨクと靖国問題

 今年も靖国参拝が話題となる季節がやってまいりました(微妙に遅い)。私も時流に乗ってこの問題を採り上げることにします。
 はたしてこの場所でこういうことを書いてしまって良いのか疑問ですが、最近暴走気味なので気にせずに突っ走ります。

 私の靖国に対する個人的な思いなどを書いても誰も読んでくれないと思うので、私が主にwebで見聞きした、時には私自身が参加した議論から感じたことや、左派・右派(参拝反対派・賛成派ではありません)の捉え方の違いなどを書いていきます。というか自分の考えをまとめるためなんですけどね。あ、私はサヨクなので、当然左に偏った内容になります。

靖国外交問題

 まずありがちな左派と右派のすれ違いとして、中国や韓国などとの関係の問題についてです。
 左派の多くは靖国問題外交問題としては重視せず、主に国内問題と考えています。…って書くと「靖国問題」(高橋哲哉)に影響を受けまくりと思われそうですが(いや、否定はしませんが)、実際にこの点を重要視している左派はほとんど見かけません。むしろ財界側の人間の主張ですね。そらそうです、“頭がお花畑”なサヨクが経済に気を遣うはずありません(なんでやねん)。

 逆に右派の主張として「中国や韓国が反対するから参拝すべきだ(参拝をやめるべきでない)」という意見があります。それがどれくらいの割合を占めるのかは解りませんが、よく聞く主張です。左派はそれらをほとんど気にしていないので議論を行う上では有意義ではありませんが、気になる点が多い主張でもあります。
 「圧力に屈するのは国益に反する」とか「内政干渉には毅然と」ということですが、まず第一に、外交は譲歩のしあいみたいなものですから、一方的に日本の主張を押し通すことは外交政策として問題があると思われます。第二に、靖国問題歴史認識の問題でもあるので単純に日本一国だけの話でもなく、当時日本と戦った国が関与してくるのも当然のこと。
 そして「中国や韓国が反対するから」というのはあまりに主体性が無さ過ぎでは?ということ。ここでは「中国や韓国の反対」が重要であって、靖国自体は軽視されています。それが靖国であろうと通天閣であろうと同じ事、そう受け取ってしまいます。日本人自身が靖国をどう考えるか、それがもっとも重要でしょう。

靖国分祀問題

 A級戦犯分祀の問題も、左派と右派ですれ違う問題ですね。
 左派は、靖国神社の“戦没者を顕彰する”というところを大きな問題の一つとしているので、A級戦犯が合祀されていることをあまり問題としていません。A級戦犯が合祀されていようといまいと、首相の公式参拝には反対で、靖国神社そのものも批判の対象です。
 なので、いわゆる“富田メモ”の騒動(?)の時も、多くの左派は右派の言動をニヤニヤ…じゃなくって冷静に眺めていました(もっともこれを戦略的に活かすべきという意見でなるほどと思わされるものもありましたが)。分祀云々は左派と右派の論争の中ではあまり意味の無いものと言えるでしょう。

 それでも合祀・分祀について考えなければならないのは、遺族の合意無しに合祀されている例があるからです。
 死者をどのように慰霊するかはまず遺族に委ねられるべきでしょう。しかし靖国はその死者の魂を合祀し、ここに在るとしています。無宗教の私には正直想像しづらいことですが、そういったことで信教の自由が侵されていると感じる人がいる以上、これは重要な問題です。

 一方右派の主張として、教義の問題から分祀はできないというものがあります。蝋燭の火云々というものですね。
 しかし無宗教の私から見ると、それは“たかが教義”であり、教義を変えればすむものではないかと思うのです。歴史のある宗教で教義に全く変化のない宗教はあるのでしょうか?また、分祀に関する教義を変えたところで、“戦死者を顕彰する”という靖国の本質は変わらないので大した問題ではないのでは(だから左派としてもA級戦犯分祀したところで批判すべき靖国の本質は変わらない)?
 これが信仰心を持たない者だからこその傲慢な考えだということは解っています。しかしそれでは遺族の信仰や思想を無視して死者を合祀する靖国は傲慢ではないのでしょうか。

 また、こういった例もあるだけに、不可分の主張に拘るのは靖国自身の首を絞めることにもなりかねないのではと思います。
 というか、別に“分祀”じゃなくても“合祀してなかった”で良いんじゃない?と思うんですけどね。「ごめん、合祀したって言ったけど、アレ間違いやねん。」って。

靖国政教分離

 左派が重要視する点の一つが政教分離原則との問題です。私は無宗教ですが、宗教の必要性は理解しているつもりです。と同時に宗教の持つ影響力に対する警戒心も持っています。だからできるだけ国家や政治と宗教は切り離されるべきだと考えています。
 首相の公的な靖国参拝では、“公的な”が問題となってきます。これが“私的な”参拝なら、左派の多くは批判的に捉えても、反対まではしません。私的な参拝にまで反対することは信教の自由を侵すことにもなりかねないからです。また、A級戦犯分祀を国が強制するようなことにも、A級戦犯合祀に国が関与していたことを考えると単純な問題ではありませんが、望ましくないと考えます。

 公的な参拝だとする根拠としては、まず小泉首相靖国参拝を選挙公約に掲げたことでしょう。これは政教分離に反するだけでなく、靖国の政治利用でもあり、これだけでも十分な批判材料になります。これは小泉首相の大きな失敗だったのではないでしょうか。
 もちろん“内閣総理大臣”の名目で参拝したことも。内閣総理大臣のポストは国民から与えられた公的なもので、これを私的とするのは公私混同としか思えません。

 この問題でよく聞く右派の主張は、「靖国参拝は習慣化され宗教的意義は薄いので政教分離に反しない」というもの。しかし靖国は歴史の中で大きな役割を果たしそれが現在の政教分離原則に影響を与えている“特別な存在”であること、国内でも批判が多いことなどを考えると、特に厳格に捉えるべきであり、習俗化したものとも考えられません。
 また、「伊勢神宮への参拝はどうなんだ」ってのもよく見ますが、政教分離原則を重視する人間なら当然それも「(公的なものなら)ダメ!」の一言で終わります。

 ついでに靖国参拝訴訟について。司法の違憲判断を引き出した上で敗訴を受け入れ確定させるという手法について、右派からの批判があります。しかし日頃サヨクを“お花畑”と揶揄しながらこういう戦略的に有効な手段をとったときには“卑怯”ってのはどうなんでしょうね?というのは置いておいて、まず批判されるべきは司法が違憲・合憲を争点とした訴訟は棄却してしまうことでしょう。そういった状況だから迂遠な方法をとらざる得ないわけで、原告や違憲判断をおこなった裁判官を批判する前にそのような司法の現状こそを批判するのが筋だと考えます。

靖国歴史認識

 左派にとってもっとも重要だと思われるのが歴史認識の問題。というか政教分離に関しても外交問題にしても結局は歴史認識と密接な関係にあるのだから、これこそが左派にとっての靖国問題の本質でしょう。

 遊就館などから見て取れる(って私は行ったことないのであくまで読み聴きしたものですが)靖国歴史観。首相が公的に靖国を参拝するということは、日本という国がこの歴史観を(本人が望む望まないにかかわらず)公的に認めるという政治的パフォーマンスとなる、と考えられます(ここで心の問題は関係ありません。小泉首相が何をどう考えようが私たちには全くどうでもよく、どういった行動をとったかが重要です)。左派と右派の靖国問題での論争も、本来なら歴史認識が最大の争点となるべきでしょう。
 まあ私は歴史認識について書けるほどの知識を持ち合わせていないので他の方々に丸投げするしかありませんが。

 しかし、この論争で必ずと言って良いほど右派から持ち出されるのが「東京裁判は間違いだった」という主張。これもすれ違いの一つですが、そもそも左派の多くも東京裁判を批判的に捉えています。それは天皇の戦争責任に関することなど、右派とは正反対の理由によるものですが、東京裁判に批判的なのは左派も同様なのです。
 左派が重要だと考えるのは、東京裁判の内容に頼らず、日本人自身があの一連の対外戦争をどう捉えるかということです。だから靖国問題はなにより国内問題であり、過去の戦争を正当化する靖国神社に首相が公的に参拝することに反対するのです。

靖国と英霊

 靖国問題について語られるとき、「参拝に反対するのは英霊への冒涜だ」などととよく言われます。また、「英霊は自ら望んで靖国に祀られるために戦場へいったのだから」などと。

 まず、私はそもそも霊の存在を信じておらず、当然英霊も信じていないので、このようなことを言われても「はぁ、そうですか」としか言えません。なんというか「霊感って信じる?」ではなく「霊感ある?」と、霊の存在を当然のこととして話しかけられるような時の違和感を感じます。というか端から見ると感情的な意見としか見られないのでやめたほうが無難でしょう。

 いや、そんなことはどうでもよく、“英霊の声”を代弁するかのような発言は、それ自体に問題があるように感じます。
 戦没者達は一人一人違った思いで戦地に赴いたことでしょう。そして亡くなるときも、人を殺す時も。本当に“靖国で会おう”と“お国のために”戦った人も多いでしょうが、そうでなかった人も多くいたはずです。しかしそれを無視し“英霊”を一緒くたに扱うその態度は、私から見れば自身の主張を英霊の名を借りて語っているだけにしか見えず、それこそ死者への冒涜だと映ります。

靖国と国立追悼施設

 靖国神社の代わりに国立の戦没者追悼施設をつくろうという考えがありますが、これについては左派は賛成者が多いという印象があります。

 しかし私はこれについては反対の立場です。戦死者とそれ以外の死者を区別して国が追悼するということが何を意味するのか。戦死者、言い換えれば国のために(国のせいで)亡くなった人を国が追悼するということは、国のために戦って死ぬことを特別なこととし(死に意味を与える)、それは一歩間違えれば国のために死ぬことを推奨することに繋がるのではないかと思います。そしてそれは容易に社会的な抑圧となりかねません。
 そもそも否定するべきは国のために国民が死ぬというシステムであり、それを支える国が戦死者を慰霊するという仕組みを否定するべきだというのが私の考えです。

 慰霊は各遺族がそれぞれの方法で行うだけで十分ではないでしょうか。慰霊を国に委ねる必要を感じません。

 ええと、書くのに時間をかけすぎてなんだかよくわからなくなってきたので、この辺で終わります。他のエントリーとまとめて上げるつもりでしたが、とりあえずこれだけで。
 もししょうもない(と私が判断した)コメントがつくようなことがあれば(見ている人が少ないから無いでしょうが)ザックリと消しますので。

参考にした本とか

 今回はリンクを貼るのはやめて、靖国問題で影響を受けた本を載せておきます。

靖国問題 (ちくま新書)

靖国問題 (ちくま新書)

日本という国 (よりみちパン!セ)

日本という国 (よりみちパン!セ)

初めて人を殺す―老日本兵の戦争論 (岩波現代文庫)

初めて人を殺す―老日本兵の戦争論 (岩波現代文庫)