web上の議論での“言論弾圧”とか“表現の自由の侵害”とかの主張について。

 青狐(bluefox014)さんのエントリー「コメント削除される」より

「さんぼ」さんは私のコメントを「表現の自由への侵犯」と扱いたいように見える。しかしコメント欄の経緯を見ればわかるように、コメントスクラムもなければ脅迫めいた言葉もないし、何でこれが「表現の自由への侵犯」に思えるのか、私には理解できない。

という内容、また、「世界に私見を「リリース」しているという自覚はあるのだろうか」
を呼んで思ったこと。

 web上での議論に絡んで、たまに論争相手に「言論弾圧」とか「表現の自由の侵害」だとかの表現が向けられることがあります。この主張には主に2つのパターンがあります。

書き込みの削除・コメント欄の閉鎖に対するもの

 よく見るのが掲示板やブログのコメント欄への書き込みの削除、コメント欄の閉鎖・凍結、といった行為に向けられたもの。
 確かに自分の伝えたいことを伝えられないことへの苛立ちは理解できます。議論を無に帰すようなことは関心できず、批判されても仕方ないでしょう。しかしそれを“言論弾圧”や“表現の自由の侵害”と批判するのは間違いです。

 書き込みたい場所への書き込みは不可能になりますが、伝えたいことの表現そのものは可能です。一億総ブロガーと言われる時代(大げさ)、他所の掲示板やブログに書き込める環境にあるなら誰でも無料でブログを書くことができます。相手を批判したい場合は自分のブログで批判し、リンクしたりトラックバックを送れば良いわけです。たったそれだけで“表現の自由”は獲得できるのです。また、ソーシャルブックマークというものだってあり、相手に届くか届かないかは別としても、表現する方法はいくらでもあります。
 もちろんブログで書く場合は完全な匿名や捨てハンドルではなく固定ハンドル(場合によっては実名)ということになりますが、だからといって自由な主張ができないわけではありません(しかし一部の人にとってはこれこそが大問題かもしれませんが)。

 一方、どんなものでも批判はなされるべきだと思いますが、だからといってそれを受け入れなければならないと考えるのは傲慢です。批判を真摯に受け止めるのも無視するのも削除するのも自由です。

 ちなみに、コメントの削除に対し文句も言わずに淡々と自身のブログに転載する青狐さんの手法は実にスマート。

批判に対するもの

 青狐さんに向けられたものはこちらのパターンですね。そう多くみられる主張ではありませんが、私もこのようなことを書かれたことがありました。ある場所での論争で相手の発言を批判したところ、「自分は書きたいことを書いているのだからそれに文句をいうのは表現の自由の侵害だ」と。あまりのことに呆気にとられたのですが、それ以来こういった主張に関心をもつようになりました。

 相手のロジックは、「自分の発言に対する批判は自分の発言を封じるものだから表現の自由の侵害だ」とか「批判によって表現者を萎縮させる」といったものですが、批判そのものが表現のひとつなのだから全く無意味となります。
 そもそも“表現の自由”には責任が伴うと考えるべきで、自分の表現には批判は許さないという態度は身勝手だと言えるでしょう(完全な匿名による書き込みは実質的に責任は生じませんが、それはまた別の話になるので割愛)。

2つのパターンの違いと共通点

 2つのパターンは“言論弾圧”や“表現の自由”という言葉を使いながら、全く正反対のパターンです。
 前者はひたすらに“批判を受け入れろ、オープンにしろ”というもので、後者は逆に“批判するな、私に触れるな”というものです。これはなかなか面白いものがあります。

 しかしどちらにも共通するのは、無制限に言いたいことを言いたいという欲求(前者は少しの努力もせずに発言の場を求めること、後者は批判に晒されずに発言したいというもの)と、“言論弾圧”・“表現の自由の侵害”という言葉の矮小化です。
 私がいったい、どのような“言論弾圧”や“表現の自由の侵害”ができるというのでしょう。何の権力も持たない私には、たとえそうしたくてもできる術はありません。歴史認識ジェンダーフリーなどについてのデマを止めたくても、議論によって相手に納得してもらうという方法しかありません。
 2つのパターンどちらにしろ、本当の「言論弾圧」・「表現の自由の侵害」を舐めきっているのでは?と感じます。

 ちなみにどーでもいいことですが、私は少し前(私がwebを徘徊する前)まで「言論弾圧」・「表現の自由の侵害」という言葉は“サヨク”(私か!)こそが好んで使うものだと思っていました。