教育基本法「改正」反対・2’(別ヴァージョン) 愛国心・郷土愛

 やっぱり前回のエントリーは[これはひどい][死ねばいいのに]な感じだったので、ほぼ同じ内容をもう少しまともな書き方で書いてみます。

愛国心教育が目指す先とは

 まず、今国会で教育基本法「改正」問題を審議することが果たして適当なのかどうか。去年の総選挙時、自民党は“郵政民営化の是非を問う国民投票”などと謳って“郵政問題”のみをクローズアップしていました。結果自民党は圧勝しまし、それはそれで国民が郵政民営化を認めたと言えるかもしれませんが(そんな単純なものではありませんが)、憲法「改正」に次いで重要な問題である教育基本法「改正」まで国民が認めたとは到底言えません。これはもう“だまし討ち”であり、厳しく非難されるべきです。

 その上で、今回は「改正」案でもっとも注目を浴びている“愛国心”について色々と書いてみたいと思います。

 与党の改正案では「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」となっていますが、そもそも“愛国心”自体の定義があいまいであり、“郷土愛”との違いも明確ではないので、ここでは一緒くたに“愛国心”とします(民主党案ではほぼ“愛国心”と言えるもの)。

 “愛国心”は魔法ではなく、“愛国心”があれば国が良くなるというものではありません。愛国心教育にどのような意味があるかは他の国を見てみると何かわかるかもしれません。参考に2つほどリンクを張ってみます。
八栄八恥「20.75世紀メディア」
諸外国における国旗,国歌の取扱い「文部科学省」
 1つ目のリンク先は、中華人民共和国国家主席胡錦濤の発言を元に中国政府が推し進めようとしている道徳規範について言及されているものです。その「八栄八恥」と呼ばれる道徳規範では“愛国”が非常に重要なものとして位置づけられています。それ以前からも中国において“愛国”は重要なものだったようですが、中国の政治体制を見れば愛国心教育がなければ成り立たなかったことが容易に想像できます。
 2つ目は文部省のサイトのコンテンツで、外国での国旗国歌の取り扱いについてまとめられたページです。注目したいのが「(3)外国の学校における国旗・国歌の取扱い」。多くの国では教育現場での国旗の掲揚・国歌の斉唱については特に取り決めが無いのに対し、中国では非常に厳格に取り決められそれらが義務づけられています。
 では日本ではどうでしょう。ご存じの通り“愛国心の必要性”が頻繁に聴かれます。国旗国歌法の成立から(実際にはそれ以前から)学校行事での国旗の掲揚・国家の斉唱が推し進められています。中国の状況にとてもよく似てきているように感じます。
 “愛国心教育”=中国的だとは即座には言いませんし、とりあえずここでは中国的なやりかたがダメだとも言いません。しかし他国に目を向ければ“愛国心教育”の一つの可能性が存在し、それが日本の目指すべきものだとも思えません。教育基本法に“愛国心”が取り入れられたとき、そこに向かわないという保証や歯止めはあるのでしょうか。

何を持って“愛国心”なのか

 現実に教育基本法が「改正」されたとして、“愛国心”が評価されるという事態を覚悟しなければなりません。これは決して荒唐無稽な話ではなく、実際過去に福岡市の私立小学校などで行われたことです。
 では、どいういったことが“愛国的”と評価されるのでしょうか。日本を愛するからこそ現政権を批判するということも当然考えられます。しかしそれが“愛国的”と評価されるかどうかは非常に怪しいです。また、”愛国心を態度で示せ”というのもとても歪なものです。“愛国心”とは競って表現するようなものなのでしょうか。

感情を強制するということ

 教育である以上、ある程度心に踏み込むのも仕方ないとは思います。しかし、“愛国心”とは“愛”という言葉が示す通り、感情的なものだと理解しています。“愛”というと良いもののように聞こえますが、例えばストーカーも“(身勝手な)愛”の一形態であったり、“愛”が冷静さを失わせたりすることを考えれば、必ずしも肯定的に捉えるべきではありません。
 また、“愛”とは思い通りになるようなものでもありません。感情なのだから思い通りにならないのは当然ですが、“愛する”ことはなにか“愛すべき理由”があって初めておこる感情であり、その理由も個人によって様々なのだから、“誰かを・何かを愛せよ”と言ったところでその通りになるはずがありません。まず多くの人が愛せる国を目指すべきなのに、愛させることから始めさせるというのは本末転倒です。
 にもかかわらず、一律に“国を愛する”ことを求めようとすると、どのような手段があり得るでしょうか。私にはあまり歓迎したくない方法しか思い浮かびません。

郷土愛を語る資格

 今度は“郷土愛”について。
 確かに地元に根ざした生活などはある程度推奨されても良いかもしれず、そう言った意味で“郷土愛”が必要だということには一定の理解を示せます。しかし、そう言った意味で“郷土愛”という言葉を使っている人はどれほどいるでしょう、特に政治の場で。
 日本から誇るべき風景を奪い去った、またはその手助けをした人たちが、何を語っているか。こういうことに神経を尖らせなければ、本心から“郷土愛が大切だ”と考えている人たちのその純真な心は、結局いいように使われるだけでしょう。

 「改正」案では「伝統と文化を尊重し、〜」とありますが、私の認識ではそれらを守ろうとしているのは“プロ市民”などと揶揄されている人達です。実際の処、“伝統と文化”をないがしろにしているのは誰でしょう。

内心の自由という最低限の自由

 私は他人の愛国心に対しとやかく言うつもりは全くありません。他人の心に土足で踏み込むようなまねはしたくないからです。“愛国心”が大切だと考えるということは、その人が“愛国心”について真剣に考えた結果なのでしょうから、理解できなくとそれは尊重されるべきです。
 しかし、わたしは“愛国心”は持つべきではないと考えています(この場合の“べき”は私自身に向けたものなので誤解なきよう)。なぜそう考えるにいたったかは長くなるので書きませんが、私なりに真剣に“愛国心”について考えた結果の結論です。
 “愛国心を養う”ということは、私のそういった考えだけでなく、“愛国心が大切だ”と考えるに至った課程をも一切無視しするという点でまず受け入れられません。

 もちろん考え方などというのは変化していくものです。しかしそれは自分自身で納得した上で変化するべきものであって、押しつけられる形であってはならないと考えます。

愛国心

 日本人は、“愛国心”について過敏であるべきだと考えています。それは、日本の過去の歴史と“愛国心”が密接に関わっているからです(複雑な問題であり、教育基本法とは直接的には関係がないのでぼかします)。日本の過去の行為が単純に“愛国心”のせいだ、とは思いませんが、“愛国心”が果たした役割は大きいでしょう。

 もちろん、大日本帝国と現在の日本は分けて考えるべきという考えや、そのころは生まれていなかったから関係ない、という意見もあると思います。しかし、文化や思想は世代や時代を超えて受け継がれ、それが伝統と呼ばれるものになります。国を愛する根拠の一つが伝統であるなら、やはり過去の歴史をふまえる必要があるでしょう。

 …と、多少は様になる(?)ように直してみました。無理矢理直したので変な感じですが。表現って難しいですね。