tasoiさんへの応答

kurotokage2007-07-09


 私とid:tasoiさんのはてなブックマークコメントでのやりとりについてtasoiさんがエントリを立てて言及なさっているので、それに応答してみたいと思います。揉め事ではないので[揉め事]タグはつけないで!

返信というかツッコミ

 全体的にちょっと攻撃的な書き方になりますが、ハッキリ言ってそれだけの苛立ちを感じました。

 tasoiさんはまず、私の

アレげなバナー」と他人のセンスを嗤うのは相互理解の手段ですか?>tasoiさん

という返信を

kurotokageさんのレスはやっぱり、会話のときの様々な要素の「程度の部分」を無視して、極論に持ってってるようにも見えるから。

と評しています。
 たかだか100文字以下のブックマークコメントが“会話”と言えるのですか?というのは置いておいて。私はtasoiさんの態度が“度を超した”二重基準的態度と思えたからあのようなことを書いたのです。

 私は、多くの人がヒくようなダーティーなギャグにもゲハゲハ笑ってしまうような下品な人間なので、普段なら「アレげ」程度の揶揄には反応しません。
 ところがtasoiさんは「他人の思いを汲み取ることが必要」といったような繊細な対話の手法について語りつつ、他人のセンスをバカにするような表現をおこなっていたので、それは全く逆ベクトルのことではないの?ということからあのようなツッコミを書きました。なので、「「程度の部分を」を無視して」は間違いです。

 そして“思いを汲む”ことに繋がるわけですが、tasoiさんはあれらのバナーを貼ることの“思い”をどれだけ“汲んだ”のでしょうか。
 あれらのバナーを貼っている人も、それぞれ違う考えがあると予想できます。センスが良いと思っている人・センスが悪いと思っているけど主張には賛同するから貼っている人、主張に全面的に賛同する人、疑問に感じるところはありながらも根本部分には賛同している人、表現はあれで問題ないと考える人・ドギツいけど印象を強くするためには仕方ないと考える人、その他色々。
 しかしtasoiさんはそれらを全てひっくるめて「アレげ」としています。どこが“思いを汲んで”いるのですか?私はわざわざそんな思いを汲む必要は無いと思っているし、実際D_Amonさんがどのような思いでバナーを貼っているかを知りませんが、tasoiさんはそうではないのでしょう?

 その後、tasoiさんは「アレげ」という表現が正当なものであることを示すために文章を進め、

説明がすごく長くなったけど、以上が、表題のやりとりや、関連した色んなものに対して感じたことの次第です。

と書かれていますが…、えーと…説明に…なってませんよね…?
 tasoiさんは単に自分自身の“感覚”とtasoiさんが共感する意見を並べただけで、“どこがどのように「アレげ」だったのか”、“「アレげ」という表現がいかに妥当だったか”を一切説明していませんよ。tasoiさんがどれだけ自分の感覚を述べても、その感覚を共有しない私には「え?あ、そうなん…?」としか返すことができません。
 ちなみにtasoiさんがとりあげた「教育基本法「改正」案、本音バージョン2.0(ネタ)」(荻上式BLOG)に、私は

2006年11月23日 kurotokage [おもしろ][教育]みんな上手すぎる。

というブックマークコメントをつけています。

 ハッキリ言って、“ヒく”とか“ヒかない”とかどうでもいいんです。私自身他人から“ヒかれる”要素を多く持っているので(いい歳してカードゲームやってるとかヘヴィメタル聴いているとか爬虫類好きだとか)、他人の“ヒいてしまう”ような要素にケチつけるつもりはありません。
 逆に他人の「ヒくわー」なんて言葉にはいちいち噛みつくつもりはありません。せいぜい「ハハハ、お前の方がヒくわ」と毒づくぐらいで。いやむしろ、自分のセンスに絶対の自信を持ち、反感買うことを承知した上での「ヒくわー」なら、私的に全然アリです。でもtasoiさんの「ヒく」は余裕でナシです。
 万人に好かれるものなどないのだから、どんなものでも常に“ヒかれる”可能性があるわけで、それを“程度問題”と称してして自分基準でバカにして良いものと悪いものを切り分けたとしても、到底同意はできません。少なくともその基準が如何に妥当であるかを主張すること無しには。

 それよりも問題に感じたのは

(たぶんだけど、多くの“一般人”も引いちゃうと思うわけ。言いづらいんだけど・・・)

という、数の論理で自身の主張を正当化しようとする部分。ここだけでなく、それ以降のtasoiさんが共感する意見を並べるところも同じ意味を持つと感じました。
 ある部分においてマイノリティーである私にとって、“数の多い意見が正しい”なんてのは到底受け入れることができません。あえて感情的に書けば、「嫌悪感を感じる」ということです。まさか「多数決が民主主義だ」なんて言いませんよね?
 まあ、“数”を根拠にするなら、まずアンケートでもとってはいかがでしょうか。確かはてなのツールでそういうのがあったと思うので。

 これらが、tasoiさんのとりあげる“左翼的言説”の主張の仕方に対する戦術指南であるなら聞くべきところはあるでしょう。しかしそのように読めるところはありません。
 主張や宣伝はある程度声を大きく・印象を強くしなければ、誰にも聞いて・見てもらえません。しかし声を大きく・印象を強くすると、それに対して反発する人が必ず出てきます。声を大きく・印象を強くすることによるメリットとデメリット、この見極めが難しいわけですが、ではtasoiさんはどのくらいの“バランス”が良いと考えますか?

 ついでに。

・・・「ヒク」「さすがにこれは無い」とか表現すると、ひどいかな?

傷ついたらごめん

 私はもっとひどいことを言われてきたしされてきたので、今更その程度で傷つかないし、「知るかボケ」で返せるくらいには図太いですが、相手が傷つくことに対して何のフォローもする気がないのなら「傷ついたらごめん」なんて書かない方が良いと思いますよ。“謝罪に相当することをあえてやった”としか読めないので。

 ここから“思いを汲む”ということについての私の考えと、他所のコメント欄やブックマークコメントから見て取れるtasoiさんのスタンスについて思うところをちょっと書こうかと思っていたのですが、時間が無いので終わります。
 また時間がとれれば続きを書くかもしれません。その時はtasoiさんのはてなダイアリーidトラックバックを送ります。