教育基本法「改正」反対・2.1 「愛国心を持つことは自然」について

 教育基本法「改正」問題関連の記事などを読みあさっていると、よく「愛国心を持つことは自然なこと」といった意味のフレーズが登場し、その後に「(だから)愛国心教育は必要(もしくは問題ない)」と続きます。これに対し私は3つの疑問があるので、順番に挙げていきます。

1.どーでもいいけど

 愛国心という感情(?)が自然に芽生えるものなら、別に教育によって教える必要はないんじゃないの?ってことです。
 これはよく指摘されますが、“愛”というおそらく誰もが自然に持っているであろう感情を学校で教えないのと同様に(今は教えられていたりして)、初めから持っているなら教える必要はない、というか教えようのないものである気がします。愛国心をわざわざ教えなければならないということは、自然な感情ではないということではないでしょうか。
 ま、これはわりとどうでもいいです。

2.人間が先か国が先か

 愛国心を持つことは、本当に自然なことなのでしょうか。
 国とは人間が生み出した概念であって、国という物体が存在しているわけではありません。つまり、ニワトリが先にあってタマゴが…、じゃなくて、人間が先にあって国があるのですから、その国という概念を愛するという感情が初めから人間に備わっているというのはありえないのではないかな?と思います。

 もっとも、人間は本能的に社会を形成する生き物であるなら、所属する共同体に愛着を抱くことは自然と言えるかもしれません(まあ私は生物学には全くの無知なので本当のところわかりませんが)。
 しかしそれならそれで、なぜ国(国家?)に限定されているのでしょう。より小さな単位の都道府県・市町村・家族・学校・会社・仲良しグループ、その他色々なものが対象となっても良いはずですし、逆により大きな単位の東アジア・アジア諸国・国連加盟国・北半球(えー)とかでも良いはずです。
 教育はできるだけ国家から独立するべきなら、愛する対象の共同体を国に限定する理由はなんでしょう。…ここまでくると「国家とは…」という超重い話題になるのでお手上げですが。

3.自然な感情は素晴らしい?

 仮に「愛国心を持つことは自然」であるとして、自然だから何なのか?という疑問があります。自然なことだから推奨されるなら、私が誰かを憎み殺したいと思ったとき、それも推奨されるのでしょうか。
 人間は理性で感情をコントロールする生き物だとするなら、自然なことは単に自然なこととして捉え、自然なこと=良いことと結論づけるのは避けるべきではないでしょうか。

愛国心を説く上で

 根本的な疑問としては、結局“愛国心”ってなんやねん、ってことですね。ここでの“愛”がどういうものなのか、“国”は何を指すのか。このようなきわめて定義の曖昧な言葉を使って論理的な説明ができるとは思えません。
 愛国心の必要性を説くなら、まず“愛国心”という言葉の定義を明確にし、それが何にどのような影響を与えるのかを詳細に検討するべきです。でなければ、一部の人間にとって都合の良い解釈の“愛国心”が蔓延することになりかねません。

 「自分の愛国心は他人の愛国心と同じなのか?」ということから始めましょう。

 もっともこういうことを考えるなら、最低でも

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

くらいは読んでおくべきなのでしょうけど。不勉強ですみません。