tasoiさんへの再応答 (2)

 次は直接tasoiさんの返信に対してです。tasoiさんが番号を振って分けてくれているので、それを使わせてもらいます。

>1.対話の手法について語ることと、ネガティブ言及の両立について

『ある程度、他人の気持ちを汲み取るのも大事だよね』ということと、
『いくらなんでも憎悪渦巻く表現が満載のバナー群がずらりと並ぶと、ヒクんじゃない?』
というのは、両立すると思う。

 両立するかしないかは、それぞれの“程度”によるでしょう。
 まず、発端となった私のブクマコメントは、リンチと化す“祭り”(Apes! Not Monkeys!)はてなブックマークでのtasoiさんのコメントを念頭に置いたものでした。過去の発言を掘り起こしてツッコミを入れるのは好きではありませんが、件のD_Amonさんのエントリー自体が上記の炎上コメントを前提としていたのは確実なのでとりあげます。
 tasoiさんはそこで、いわゆる“ネットイナゴ”に対して批判的なブクマコメントを“嘲笑的”として批判しています。 “憎悪渦巻く表現が満載”の炎上コメントに対する批判的ブクマコメントに対し「悲しい」としながら、「憎悪渦巻く表現が満載のバナー群がずらりと並ぶと、ヒク」というのは、私の“感覚”からすると両立しません。これが両立するとすれば、「“バナーの表現”よりも“炎上コメント”の方がマシ」な場合ですが…。tasoiさんはそのように感じたのでしょうか。

↓対話例
たそ「このアレなバナーは何さー?(汗」
亜門「これはその法律とかに対して、よっっっぽどムカついたからやってんだよ」
たそ「うーん、そうなのかあ。丁寧に書いた方が伝わるんじゃないの?」
亜門「放っとけバーカw」
たそ「(`Д´)放っとくよバーカ」

こういう感じに、普通に対話できるんじゃないかな。
kurotokageさん、割とさっくり人の言及を『嘲う』みたいに評してるけど、
その言葉、当てはまらないと思う。こっちに悪意がそんな無いもん。

 私の把握する限り接点は0だったのですが、tasoiさんとD_Amonさんはそのような親しい間柄なのですか?そうでないなら、それは“親密度”という程度を無視した“極論”ではないでしょうか(もし、実はよく酒を飲みに行くようなほどの間柄だったのならごめんなさい)。

 “アレげ”という言葉の“アレ”という部分には、直接表現することが憚れる言葉や、直接表現することで差別者と糾弾されるような言葉が入っていたわけです。それが単独で使われるようになり意味は変化したでしょうが、もともと悪意をもって使われていた言葉が今はほとんど悪意が無いと受け止められると考えるのは、単なるスラングとはいえ無理があるのではないでしょうか。

 私がtasoiさんに向けて突然脈略無く「アホボケカス死ね」と書いたとき、tasoiさんはそこに悪意を見いだしませんか。しかしそういった言葉は、私のごく親しい友人達の間では普通に使われるものです。そこに悪意は無いとは言わない、というよりむしろ悪意そのものを楽しんでいたりするわけです。しかし、一・二回言葉を交わしただけのtasoiさんにそんなことを理解してもらえるとは当然考えていません。

 私はtasoiさんではないし、火田七瀬のようなテレパスではないので(イタタ)、tasoiさんの心の中まではわかりません。書いてあることだけを頼りに判断します。
 ついでに書いておくと、悪意というものはなかなか自覚できるものではないと思いますよ。

他人のセンスを嘲笑する(対話する気がないと思わせるほどの嘲笑具合)、っていうのは
もっとアレなやつだよ。
(中略)
それと、『度の超えた行為はやめた方が』、という言い方は、
特に身を慎みまくった聖人じゃないと言っちゃいけないってことじゃないよね、と思う。

 この辺は上で挙げた炎上コメントの場合にも当てはめてください。

 勘違いしているようですが、私は「やめろ」と言っているわけではありません。「それはおかしいんじゃないの?」と言っているのです。それに対して「俺の中では矛盾しないんじゃ!」と言うのであれば「ふーん」ですまし、そのスタンスを理解できなければ「この人は自分に甘く他人に厳しい人なんだなあ」と私の中で処理するだけです。

 ちなみに私は“悪意のある表現”はわりと好きです。特に最近は自分の中でSEX PISTOLSブームが再燃しているので。イギリス女王を揶揄しまくった「God Save The Queen」とか、所属していたレコード会社をバカにしまくった「EMI」とか、フランク・シナトラをコケにしまくった「May Way」とか。

No future! No future!! No future for you!!!

>2.コミュニケーションのやり方について

感覚の問題だから、感覚を書く。
参考に見て欲しいから、共感した意見を書く。
そういうのが総じて、説明になっていく、と考えてます。
何か違う??

 違うと思います。tasoiさんが挙げた意見に私は共感を覚えませんでした。だから、同様の意見を100万個積み上げられても何も変わりません。
 相反する感情論をぶつけ合っても、多くの場合は永遠に平行線を辿るだけです。相手に理解してもらおうとするなら、感情を言葉にし、理解する糸口を示すことが大事だと思います。

>3.万人に○○なものは無い&どんなものも△△な可能性はある (←??? なんか既視感。)

まず、程度問題っていう要素はすごくあるよ、断然として。
軽いブラックジョークなら許されても、無茶苦茶酷いブラックジョークは大概ヒかれるし。
その切り分けなんて、モロに程度問題だもん。

 ヒくヒかないは内心の問題であり、そこに踏み込むつもりはありません。例えば内心では外国人に対する強烈な憎悪を持っていようとも、それは個人の自由であり、触れるべきではないと考えます。
 問題はそれを一般化し表現すること。tasoiさんは自分の、少なくとも私にはわからない基準であるものを批判し、あるものに賛同する。それはおかしいのではないかということです。

今回の事例に則して自分の基準を言えば、
「相手を悪魔化しすぎ」
「一方的な解釈を前面に押し出してる比率が高い」
「善悪の判断を決めてしまう単語を入れまくり(改悪とかナチスとか現代版治安維持法とか)」
のようなもので自分は判断してると思います。
そんな要素の度が超えすぎてると、これはヤバいって思う。
憎悪に取り込まれてる印象を受けるから。

 初めからこのように書いていてくれれば、と感じます。これなら賛同はできなくても理解はできます。

>4.数の論理の取り扱い

そういう意味で、数も重要な1つだからこそ、
民主主義の根幹の部分に、話し合い&多数決っていう感じで数の論理“ も ”組み込まれてるんじゃないの?

 まず極論から書くと、私は選挙も含めた全ての多数決には反対です。多数決そのものは少数意見を切り捨てる手法であり、全ては議論によって決められるべきだと考えています。
 しかしそれは、少人数単位の共同体でなら可能であっても、実際の社会は国家単位で動いており、日本だけでみても一億以上の人口を抱えている以上、不可能です。だから現実的に考えて多数決は必要だと考えますが、根本の部分では否定しています。私の考えでは、民主主義の根幹には多数決は含まれていません。

 そして、多数決で考えるなら「ネットイナゴはバカにしてOK」となります。上で挙げたはてなブックマークでは、tasoiさんのように「思いを汲み取るべき」とする意見はほとんどありません。また、件のバナーも利用している人が多いことから、OKとなる。それで良いのでしょうか。

kurotokageさんは、玉虫色って嫌いですか?

 嫌いです。その玉虫色の決着によって多くの人が丸く収まっても、その影で少数の人が泣くことになるのです。主張が異なれば、徹底的に議論すればいい。猶予がなくなって多数決で決着させても、お互いに納得できなければまた次に持ち越せば良いのです。玉虫色、それこそが多数者にとって都合の良いものでしかないと考えます。

>5.主張や宣伝の方法論について

声を大きくすること=>増大させまくった悪意で満載の主張をすること じゃないし、
印象を強くすること=>相手を悪魔化するような一方的な表現 でもないよ。

 もちろん、表現の手法は様々です。しかし悪意は人を惹きつけるものでもあります。毒舌テキストとか面白くありませんか?私は好きです。そのメリットデメリットは計れるものではありませんが、試す価値はあると考えます。
 こういったものは、各々がそれぞれの方法で試すしかないでしょう。あのバナーの表現方法に問題があると感じたなら、別の表現方法を模索すればいいわけで。

 批評と創造は別物だと思いますし、漫画を描くことや映画を撮るといった高度な技術が必要なものならまた話は別です。しかし、件のバナーを巡って交わされる意見は批評以前の感想でしかありませんし、バナーを作るのはやる気があれば(それが難しいんですが)誰にでもできることです。
 アレコレ言う前に自分で作ってみては?と思います。そこでバナーによる表現方法の限界も見えてきますし、「これはない」と言っている人たちのセンスが試されるわけです。
 そうやって皆がそれぞれの表現手法をとり選択肢を増やすことで、質の低いものは(理想的な流れでは)自然と淘汰されます。数の論理はこういう場合に用いるものではないでしょうか。

 ちなみに、私は漫画やアニメのパロディを政治的主張に使うのは、あまり好きではありません(右左問わず)。私の好きな作品がそういうことに使われるのを想像すると…(見たことないけど)。いや、好きにすればいいんですけどね。

>6.自分の思うさじ加減、方法論の続き

 これに関しては何も異論はありません。tasoiさんが自ら手法を考えそれを実践すること、それは素晴らしいと思いますし、応援します(私のやり方は“ガチ”だけど)。

>7.蛇足気味な部分だけど、いくつか。

なので本来は、「じゃあお前はどう思うんよ」と、ひとつひとつ聞かなくても、読みとって欲しかったかも。

 私の考える“web上での誠実と呼べる対話”は、“書いてあることをしっかり読み取る”・“書いてないことを勝手に読み取らない”ことです。この辺は別のエントリーとして書こうかと思ったのですが、時間がないのでここで簡単に。

 “書いてあることを読む”はまあ当然ですね。“思いを汲み取る”として“書いていないことを読み取”ったものは、結局思いを汲む側の想像できる範囲のものでしかありません。さらにヘタをすると、思いを汲む側に都合の良いものとなってしまいます。
 長年付き合いのある友人の思いを汲むことすら容易ではない。それがwebで一・二回やりとりしただけの相手ならなおさら。皆が互いに思っていることを言葉にせずとも理解しあうことができれば、それはとても生きやすい世界でしょう。しかし現実はそうではない。
 普段の人間関係では“思いを汲む”という努力はどうしても欠かせないものです。しかしweb上での、お互いろくに何も知らない者どうしでの“思いを汲む”という行為は、対話においてすれ違いを招きやすいものです。

『これは言いづらいけど、言わないと伝わらない部分かなあ・・』と思ったときは
そういう風に書いてます。

 相手が傷つくことでも言うべきことは言う、というスタンスは素晴らしいと思いますし、共感します。しかし、それならそれは謝罪するべきことではないでしょう。

>8.ここまで来たら全部書く。『マイノリティに対しての感覚』

いきなり漫画のことで悪いんだけど、
自分のすごく好きな漫画家のすごく好きな漫画に
「どうにかなる日々」(作者は志村貴子さん)
っていうのがあります。
(中略)
わかってほしいなあ・・・

 わかります。人と違うことなんてどうってことない、そんなこと気にする必要ない、という感覚。すぐに例が思い出せませんが、私もそういった種類の話は好きです。tasoiさんの挙げた作品を読めば、きっと私も好きになるでしょう。

 しかし…、それは理想であって、やはり現実はそうじゃない。例えば、ゲイに対し「ゲイであることなんて気にする必要ない」なんて私には言えません。だってTVのバラエティでも、あたりまえのようにゲイがゲイであることを理由に笑いものにされている、そんな現実があるから。

 私に関することでは、“それ”は気にしたくなくても気にさせられる。受験やバイトや就職の面接でいやというほど“それ”を意識させられる。去年アメリカに行ったとき、入国審査で言うべき言葉が出てこず、とてもあせりました。審査官からはあからさまに不審な目でみられ、このまま別の部屋に連れて行かれるのではないかと思うほど。

 tasoiさんの言いたいことはなんとなくわかるけど、それは現実を無視したものだし、また、少数者に対して「強くあれ」と言うことと等しいと感じます。
 私と同じ“それ”を持つ人でも前向きに強く生きている人がおり、そういった人を心から尊敬します。しかし私の心は弱い。とても自分の“それ”に対して肯定的になることはできない人間です。

 漫画のお勧めに対して漫画のお勧めで返すと、きづきあきらの短編集「伝染コンプレックス」に収録されている「BITTER CAKES」を、また、長編ですが、岩明均の「風子のいる店」などをお勧めしておきます。

伝染コンプレックス (ガムコミックスプラス)

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風子のいる店 (1) (講談社漫画文庫)

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