「死ぬ死ぬ詐欺」とか「2ちゃんねらー」とかアレコレ

 最近id:mushimoriさんのエントリー「「2ちゃんねらー=ネット右翼」に関する覚え書き――「死ぬ死ぬ詐欺」言説に寄せて」 にあれこれコメントしていたのですが(自分のブログを更新せずに何やってるのかと(特に白い人に)怒られそう)、議論に関わった手前、この問題(「死ね死ね詐欺」)について自分のところで改めて考えながらまとめてみようかと思います。
 あいかわらず話題についていくのが遅い。

募金に対する私の考え

 まず私は、募金というものに対してあまり意味を見いだしていません。募金はそれによってわずかな人数の命が一時的に救われるというだけで(それ自体はとても大切なことだけど)、募金を必要とする人間を生み出す構造そのものを変えることには至りません。
 たった百円ほど募金するだけで自分の持つ社会に対しての問題意識などを満足させてしまうことや、根本的な問題から目をそらし対症療法ばかりに目を向けさせる可能性などを考えれば、危険ですらあるとも思います。

 しかしそれでも現実に募金に頼らざる得ない人がいる以上、募金活動という行為を否定はできません。また、仮に募金活動がこの世になかったとしても、それで根本的な問題に目が向けられるかといえば、ほとんどそんなことはないでしょう。

動機の問題

 「死ぬ死ぬ詐欺」の騒動は、私にとっては初めから決着のついている問題です。
 バッシング側が募金活動側の法的な問題点を挙げることができなかった時点で、これは“倫理”という土俵の上でのみ語られるべき問題です。ではバッシング側の中心である「2ちゃんねらー」に他人の倫理を批判する資格はあるか?と言えば“無い”と断言できます(それが何故かは後に「2ちゃんねらー」についてまとめて書くので置いておきます)。

 “倫理”というと、なんだか胡散臭いもの、独善的なものだとかいうイメージがあったりしますが、しかし法によって総て解決できるわけではない社会なのだから、“倫理”というものは大切です。だから私は倫理的な批判は意義のあることだと思っています。
 しかし倫理による批判は、ヘタすると単なる「俺ルール」の押しつけになってしまう恐れもあるので、それを支える論理などが必要となりますが、彼らの批判にそれはあったのでしょうか。彼らは彼らにとっての“悪”を自明のものとし、一方的な断罪を数の力によっておこなっていたとしか思えませんでした。

 一方で、好奇心などによってバッシングに参加していた人も多くいるでしょう。批判対象の所得を推測することは批判のための根拠を求めるためのようでありながら、しかし単に他人の台所事情を探っているだけであり、覗き見趣味的であると言われても仕方ないものです。「真実を追求するため」という美名のもとなら、ワイドショー的覗き見趣味な行為でも良いのでしょうか。
 少なくともそのような行為の前に、“探求”の前提となる“「身銭を切る」ことの必要性”を示さなければなりません。

 バッシング側は一体どのような動機でバッシングしているのでしょう。そしてその動機は他人の倫理を批判できるほど立派なものなのでしょうか。

目的の問題

 なによりも私が気になるのは、何故募金の問題点の行き着く先が個人へのバッシングになるのかということ。
 例えばよく見られる「募金に頼らず身銭を切れ」という主張。これは両親がNHKに勤め所得が高いという推測から出てきたものですが、この手の主張が出ることは“心情的には”理解できます。金持ちを羨ましく思うのは不思議ではないですからね。

 しかしそれをマジに主張してどうしようというのでしょう。もし仮に、今回のバッシングによって両親が募金を返還し借金をしてでも治療費を自腹で払ったとして、それが何になるのか。バッシングする人間にもそれ以外の人間にも何の意味もなく、ただ単に資産を失う家族が一組出るというだけのことです(まあバッシング側は「ざまあみろ」というカタルシス(?)を得ることができるかもしれませんが)。
 批判がルサンチマンから出るものであっても、必ずしも問題だとは思いません。しかしそれは誰の得にもならない個人へのバッシングへではなく、社会体制そのものへ向くべきではないでしょうか。高所得者社会保障負担を引き上げるとか、所得税法人税などの改革だとか、「身銭を切れ」から変換される主張はいくらでもあります。
 そもそも「運悪く難病になったら募金に頼らず私財を投げ打たなければならない」というのはいったいどういう理屈なのでしょう。

 また、臓器移植のもつ問題点を挙げてのバッシングも聞かれます。他の順番待ちをしている患者を押しのけての治療であることなど、「命を金で買う」という行為だとか。
 これこそ正に社会制度の問題であり、医療に限った問題ですらありません。しかし、特に日本に住む多くの人はそのことを見ないふりをして生きてきたはず。それがなぜこの騒動でいきなり立派な正義感をかざして個人をバッシングするのでしょうか。ホワイトバンドの時は「ほっとけよ、世界の貧しさ」と言っていたのでは?考えを翻したのであれば、個人をバッシングしている暇なんてないはず。

 この騒動の目的は、本当に「叩きやすいものを叩いているだけ」ではないというのでしょうか。
 ちなみに私はサヨクなので、個人から社会への批判に移るのなら、積極的に支持し関与しますよ。

手段の問題

 バッシングの方法としても、個人情報を晒したり、詐欺でないものを“詐欺”と吹聴したりと、とても他人の倫理を批判する側のとるべきでない手段をもちいています。この時点で彼らの主張などなんの意味もないと言えるでしょう。

 いや、そもそも今生き死にに直面した人間や、その家族・関係者に批判を向けること自体が問題ではないかとも感じます。
 私は公にされた全てのものは批判の対象になると考えていますが(もちろん掲示板やブログの内容も)、生き死にに直面した問題には保留しています。それが例え他人を蹴落とすような方法であっても、生きようとすること自体は批判されるべきではないのではないかと。人間はまず生きることが全ての前提となります。
 募金の問題点を語るにしても、今生き死にに直面した人間やその周辺へ批判を向けるのではなく、今生き死にに直面せず平穏に暮らす人間が、同じく平穏に暮らす人間に向けてそういった主張をおこなうべきではないでしょうか。

 この「死ぬ死ぬ詐欺」の騒動は、動機・目的・手段、そのどれもがおかしいものだと感じます。

2ちゃんねらーの問題と「一部の人メソッド」問題

 なぜ「2ちゃんねらー」には倫理問題で批判する資格がないのか。それは単純に「2ちゃんねる」が“アングラサイト”であり、「2ちゃんねる」というコミュニティーに属する「2ちゃんねらー」は“アウトロウ”だからです。
 「2ちゃんねる」は確かに巨大で有名なサイトですが、そこでの書き込みには誹謗中傷・デマの流布・著作権無視のものがゴロゴロしています。そしてそれが公然と黙認されている状況は、“アングラサイト”以外の何物でもありません。この点について反論は無いと思います。
 そのアングラサイトである「2ちゃんねる」に書き込みをし、「2ちゃんねる」の存在を支えている「2ちゃんねらー」は、自らを法の外に置こうとする“アウトロウ”であると。これにも異論はないでしょう。

 私はアングラ的な混沌としたものは好きです。また、こういうことを書くのは恥ずイですが、アウトロウに対する憧れみたいなものもあります。
 しかし、アウトロウである自覚がない、またはその覚悟のないアウトロウほどダサいものはない。私から見た「2ちゃんねらー」とはそのようなものです。
 いつの頃からかは知りませんが、アングラに住むアウトロウであるはずの「2ちゃんねらー」が“日向”に出てきて、あろうことか社会正義や倫理を唱え他人をバッシングし始めた。これはある意味コメディーです。アングラサイトの「2ちゃんねる」の中でどれほど誹謗中傷がなされようとも、多くの人はそれを気に留めないはず。そして“日陰”でのみそれをするのがアウトロウのはず。

 で、「2ちゃんねらー」に対する批判がなされると、必ず出てくるのが「それは一部の人だけです」という、いわゆる“一部の人メソッド”と呼ばれるものです。これについても触れておかなければならないでしょうね。
 結論から言えば、“一部の人メソッド”は成り立ちません。それは「2ちゃんねる」が高い匿名性をウリにした“匿名掲示板”だからです。警察沙汰になったりしないかぎり保たれる匿名性は、個人の発言の責任がその個人に問われない(問うことが出来ない)ことを示します。それと同時に、個々の発言者はそれぞれが個人として区別されない(区別出来ない)ことでもあります。この二つは同じ事を意味し、一方を成立させながらもう一方を無視することはできません。
 そして重要なのは、そういった仕組みを成立させているのが多くの(特に問題のない)匿名による書き込みだということです。匿名でバッシングすることは人混みの中から石を投げつける行為に似ており、他の匿名による書き込みはその石を投げる行為を(自覚有る無しに関わらず)誰のものによるかわからなくすることになります。もっと簡単に言えば、森の中に木を隠す行為に荷担しているということ。
 つまり一部の人とそれ以外を分けて考えることは不可能であり、「2ちゃんねる」に書き込みをする以上、一緒くたに扱われることを覚悟しなければならないということです。まあこんなこと、多分アチコチで言われていることだとは思いますが、一応。

 議論などでもそうですが、「2ちゃんねる」に限らず“匿名”を一個の人格として認める義理なんて無いし、不可能でもあるわけです。
 もっともこれは、半匿名(=実名でない)の固定ハンドルで発言する私達にも(程度の差はあれ)関係のあることで、決して他人事ではないのですが。

 というか、せっかくの匿名なんだから、「2ちゃんねらー」が批判されても自分は「2ちゃんねらー」ではないというフリをしておけば良いのになあ、と思うのですが。それほど「2ちゃんねる」に帰属意識を持っているということでしょうか。

webのスバラシサ

自宅なんかさっさ処分しろよな、何が唯一の財産だ。あえて言おう早くし死ねと -- 低所得者

このままなら俺は絶対に募金なぞせん。親が私財を投げ打ち、それでも不足した分を募金してくれと頭を下げるなら可能な限り募金してやる。あと受信料は絶対払わんw -- 両親自殺して保険金で賄えば

自分の親戚に頼る。自分の貯蓄と財産充てればいい。それができないなら死ぬしかない。 -- 星

腎臓と目玉売れよ -- 正義の味方

いっそのことさくらちゃん死んでくれ。そうすれば万事解決する。 -- 正義の味方

あるがままの運命を受け入れよう。 -- ななし

死んじゃいます!だからお金頂戴!!だったら死ねば?誰も困らないよ --

 以上は「死ぬ死ぬ詐欺 まとめサイト」に書かれたコメントからです。恣意的にアレな書き込みばかりを選びましたが、なんとも素晴らしいですね。
 webの良いところの一つは、こういった日常では人畜無害の良い人であろう人間が、匿名でなら平気で(本当に死に直面した人に)「死ね」と言える、人間の抱え持つ醜さを再認識させてくれるところです。一皮剥けば誰でもこうです。人間って素晴らしい!

追記

 「2ちゃんねらー」について以下の内容は全くの蛇足でした。「アングラの倫理」とでも言うべきものを持たない人びとに対する苛立ちから、極めて感情的になって書いてしまったものであり、メインとなる部分ではありません。個人的な感想以外の何物でもないので、相手にする価値もありません。読んで気を悪くした方には申し訳ありませんでした。