吃音と思想とTシャツと王様と私(王様はありません)

 私語り的で凄まじく恥ずかしいですが、猛烈に書きたくなったので。とりあえず[これはひどい]タグの準備を。

吃音者であるということ

 私は吃音者、いわゆる「どもり」というやつです。小学生高学年の時から十数年の付き合いで、このことに強烈な劣等感を抱いており、私にとって非常に重要な事柄です。
 で、ときどき「吃音」をキーワードにしてサイトを検索したりしているのですが、昨日今日初めてはてな内をあちこち見回って、印象に残ったエントリについてまずアレコレと。

夏の教室(しあわせのかたち)
 sho_taさんは吃音への理解が深く、話題に出されている友人の方は少なくともこのような方が身近にいたという点では幸せだったのだろうと想像できます。
 と、同時に

そして同時に、「どもりでよかった」と、誇りを持っていうその決意に、崇高な人間性を私は見る。

という部分が辛くもありました。
 「吃音症を受け入れそれとどう付き合っていくかを考えるべきだ」ということをよく聞き、その通りだろうと思います。しかし私はどもりをよかったと思うどころか、どもりを恨み、恥に思い、今すぐ取り去りたい、それができなければ私自身が消え去りたいと考えてしまう小さな人間です。いまだに、どもりが直りスラスラと物が言えるようになりたいという夢を捨てきれていません。

楽級新聞 「コンプレックス」についてイノハラさん、叫んでいます。(おんこ知新)
 私は吃音者の親ではなく吃音者当人ですが、どもりをみっともないと思っている(oncoさんの場合は「思っていた」)という部分では同じなのでしょう。
 ガキの頃(どもりはじめてすぐの頃)、親からどもりのことを怒られたことがあります。そのことにとてもショックを受けたのですが、後から考えるともっとも苦しんだのは親の方だったのだろうと思います。いつからかどもりのことに全く何も言わなくなったことがその証ではないかと(もっとも、私の親は小学校の教師だったので、吃音についてある程度の理解があるべきだったとは思いますが)。

「O桃書房物語2」 (「あ、すみません」)
 やばいくらい共感してしまいます。ちなみに私の「どもり抑制術」は足で軽くリズムをとることです。でもリズムをとるのに間が開くので、難発型の私にはそれほど意味はないのですが(でもやる)。
 中学の科学の授業中に指名されて答えを言わなければならない時がありました。普段ならどもりやすい答えは「わかりません」ですますところですが、このときは明らかに明らかにわかる答えで、さらに教師が気を利かせたつもりか、私が答えを言えるまでじっと待っていました。この頃は自分のどもりにまだ馴れていない時で、本当にどうしようもなく言葉が出なかったのですが、まわりから舌打ちや「早よ言えや」といったつぶやきが聞こえてきて、それでも言葉が出なく、本当に辛い体験でした。私の学校嫌いはこういった体験等に大きな理由がありそうです。
 そういった体験を経てか、私は人間そのものに対する嫌悪感を持つようになりました。小説「霊長類南へ」(筒井康隆)や漫画「デビルマン」(永井豪)、ゲーム「女神転生」シリーズ(アトラス)などの人類滅亡を描いた作品に強く惹かれるのは、自分自身を含めた人間に対して絶望を感じているからかもしれません。
 しかし一方で、自分は甘い人間ではないかとも思います。もっと重い、それこそ生命に関わる障害や病気を持った人間は沢山居るのに、単に言葉を発することに不自由なだけの吃音症にこんなに悩んでいて良いのかと。でも、それが逆に「どもりは恥ずかしい」という思いを加速させているようにも感じます。

 私は常々全ての商店が自動化すれば良いのにと思っています。そうすれば自分の名前をなかなか言えなくて怪訝な顔をされたり、食べたい料理ではなくどもりにくい名称の料理を注文したりすることがないのに。会話によるコミュニケーションが苦手なので、「コミュニケーション能力が大事!」とか言っている人を見ると「×ねばいいのに」とか思ってしまいます。
 そんな私にとって、ブログなどで文章を書くことはとても重要な意味を持ちます。普段の会話では言いたい言葉を別の言葉に言い換えたり、そもそも必要以上に話すことを避けたりして自分の思っていることを他人に伝えることが難しいのですが、文章なら本当に思ったことを、少なくとも会話よりもそのまま表現することができます。そしてwebによってそれを他人に伝えることが可能です。これは日頃の言いたいことを言えないためのストレスの発散にもなります。現実の私を知る人がこのブログを読んだら、饒舌であることに驚くでしょうね。最近私はwebの現状に絶望を感じているのですが、それでもしがみついているのはそういった理由があります。
 なので、特に文章を書くための勉強まではしてなくとも、それなりにこだわりをもって文章を書いており、絵文字や顔文字、(笑)といった記号やネットスラングを使って文章を無個性化させないように心がけています。文章を書くということは私にとって会話するよりも重要な表現方法なので、だからこそそれを大切にしています。

私がサヨクになった訳

 ここから私の思想と吃音に関する話。

 私は自分が“左翼”と呼ばれる思想を持っているという自覚があります。また“リベラル”でありたいとも思っています。それは何故か。
 上で「どもりを憎んでいる」と書きましたが、本当なら「吃音者が笑いものにされ爪弾きにされる社会」こそを憎むべきです。だから私は社会を批判的な視点で捉え、より良いものにするべきだと考えていますが、そういった考えは“左翼”と呼ばれるわけです。
 また、リベラル的な「皆違っていい」「多様な価値観が認められる社会」といったフレーズは理想主義的だとかお花畑的だとか言われますが、私にとっては決して観念的な話ではなく人生に直結したものです。何故ならこの国が吃音者などの「普通でない」人間が当たり前に生きていける社会になるかどうかは、私の今後の人生を大きく左右するからです。私にとって思想や政治的なことは私の日常生活と密接な関係にあり、切り離すことはできません。
 だから私は吃音者故にサヨクであり、リベラルであり、保守にはなりえません。

 とは言え、やはりそれは人それぞれなのでしょう。
 「低学歴・低所得層はネットウヨク・バックラッシャーになりやすい」という説がありますが、仮にその説が本当だとすると、どもりに劣等感を抱き自分に自信を持てない人が、自分の所属する国家という共同体を自らの誇りの源とし、果ては“排他的愛国者ネットウヨク?)”にまでなるということもありえそうです。また、自分がバカにされてきたことから他者に攻撃性を向け“嫌韓”などになるということも想像できます(あくまで“想像”ですが)。絶望の果てに冷笑主義に囚われることも。
 私は自分の中に抱いた劣等感や絶望感をスラッシュメタルデスメタルを聴いたり絶望系漫画を読むことで発散させているだけで、彼らと根は同じではないかと感じ、笑うことができません(皆HR/HMを聴け!)。

 また、自分の中にも様々な矛盾を感じています。上でも書いたとおり人間嫌いなところがある私が“リベラル”だと言えるのか。また、日常的に「自殺」というものを今後とるべき一つの道として考慮してしまう(学生の頃の私は社会に出て生きている自分を想像できなかった)自分は「倫理」だとか「社会のあり方」だとかを考える資格があるのだろうかとか。

 と、延々自分のことを書いて恥ずかしい気持ちで満たされています(なら書くな)。でも、これまで自分の吃音症のことを誰かに相談したり思いの丈をぶちまけたりしたことがなく、ずっと自分の中に溜め込んでいたので、スッキリした気分でもあります。
 ここまでこんな戯れ言を読んでくれた方、すみませんそしてありがとう。