アニメの放送自粛とかあったそうですが…

kurotokage2007-09-24


 最近「ひぐらしのなく頃に」と「School Days」という2作品の放送自粛という事件があったようですね。私はどちらも見ていないので直接関係ありませんが(「ひぐらし」はいつかゲームの方をやってみたい)、色々考えさせるものがありました。

 とりあえず、このPVのことが頭に浮かびました。

TWISTED SISTERの伝説的PV。約6分の内約2分半が前フリ(映画「アニマル・ハウス」のパロディらしいです)、そのほとんどをオヤジが喚くシーンに費やしているというバカバカしさ。オヤジ役のマーク・メトカーフの熱演も含めて、最高。
 TWISTED SISTERが流行っていた当時、アメリカではPMRCなどによる規制強化の動きが強まっており、このバンドもやり玉に挙がっていました。で、TWISTED SISTERのVoディー・スナイダーは公聴会アル・ゴアやティッパー・ゴア相手に真正面から“言論”によって立ち向かった一方、本来の武器である“音楽”も使って規制の動きに抵抗していったのですね。カッコよすぎです。

 we're not gonna take it! no!we'not gonna take it! we're not gonna take it any more!

 今必要なのは、こういったストレートな反抗ではないかと思ったりします。「あなた方の言っていることも理解できます。しかし〜」といった柔和なやりとりも必要だろうけど、挑発的に訴えることもまた一つの方法でしょう。放送自粛という方法で一時的なバッシングをやりすごすのは一見賢いやり方に見えますが、長い目で見れば結局、規制の強化を助長しているだけのように思えます。
 放送局が頼りにならないのならDVD化の時に放送時よりもより過激な表現へ変えるとか、OVAなどで過激な描写のみを追求した挑発的な作品を作ってみるとか。まあ、そういうことを出来る立場にないからこその無責任な発想ですが。そもそもアニメは発表できる媒体が限られているという問題もありますし。

 ところで、今回の事件から芸術論にまで発展しているようですが、規制の問題に芸術論を持ち出すのは何か違うような気がします。規制するかしないかという基準に、芸術か芸術でないかという軸を当てはめるのはズレているのではないかと。少なくとも規制を求めている人達はそんなことを問題にはしていないでしょうね。
 私はそれ以前に「芸術とかアートとか、観る人次第だろ」という考えですけど。“芸術”というものに価値を示す意味があるなら、その価値の判断はそれぞれの受け手に委ねられるべきでしょう。美術館に飾られた絵画でもクズに見えればクズ、AVでも芸術と感じれば芸術ですよ。

 それよりも!個々の作品の規制も問題ですが、“斧”を使う表現が自粛されたらかなり嫌です。私はRPGとかプレイしていても、剣や槍よりも斧という武器を優先的に使うほど斧好きです。ロボットものでは数少ない斧を使う作品「ゲッターロボ」とか大好きです。斧を規制しないで!

お知らせ

 6月24日のエントリーhttp://d.hatena.ne.jp/kurotokage/20070624/1182692975のコメント欄がコメント数の多さから書き込めなくなったようです。もうどこかで見たような内容ばかりだったので放置するつもりでしたが。どうしても伝えたいことがある方は、同じ事件を扱ったhttp://d.hatena.ne.jp/kurotokage/20070909/1189348398にお願いします。
 あと、id:usi4444さんへの返信をこちらに。
kurotokage『usi4444さん(うしさんですよね)、こんにちは。入れ替わり立ち替わり色んな人がどこかで見たようなコメントばかり書くので放置するつもりだったのですが、フォローありがとうございます。
弁護団の人数の多さは、ほぼボランティア同然の状態なので一人辺りの負担を減らすため、ということも理由だそうです。』

フリーターは新自由主義の夢を見るか?〜「赤木論文」を読んで

kurotokage2007-09-17


 「論座」という雑誌に「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」「けっきょく、「自己責任」 ですか 続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」「応答」を読んで」という赤木智弘さんによる2本の論文が載り、話題となりました。
 若年貧困層の現状と展望について書かれたこの論文は、刺激的で心情的に理解できるところのあるものでしたが、私はなんとも言えない違和感を持ち、一定の理解はできても賛同はできませんでした。

 しかしchaturangaさんのエントリー「希望は、赤木智弘?」(チャトランガ夫人の恋人)を読んでその違和感がかなり晴れたので、私なりにこの「赤木論文」について思うところを書いてみたいと思います。

 ちなみに、私はweb上に公開された2本の論文を読んだだけで、赤木さんのブログなどはほとんど読まずに書きます(「論座」に掲載された「赤木論文」に対する反論も)。それ以前の、フェミニズム関連の論争で赤木さんの主張を読み、赤木さん個人に対する興味を失ったことにも原因がありますが、それ以上にweb上での言論よりも雑誌という形で世間に発表された言論を重視する必要があると思ったためです。

流動性は根本的な解決ではない

 「赤木論文」の一番の問題点は何か。それは“流動性”に拘るところにあると思います。
 社会が流動性を持てば、世代からくる格差が解消され、今の若年貧困層にもチャンスが回ってくる。しかしそれは単にチャンスが回ってくるだけであり、現在のフリーターやホームレスといった立場の人間が上へ這い上がれるという保障はありません。

 戦争などによって社会の状況がリセットされ、理想的な流動性が生まれたとしても、それはすぐに“個人の能力”による格差で固定されます。今現実に這い上がりつつある赤木さんのような、(赤木さんの主張を前提とすれば)世代による格差によっては下に追いやられても実力によっては上へ這い上がれる人間にとってはそれでも良いのでしょう。
 しかし「世代による格差でも能力による格差でも上へ上れない」人間にとっては、どちらも同じことでしかありません。むしろ現在中小企業の正社員やフリーターなどの「何とか食っていける」という立場の人間にとっては、上へ這い上がることどころかホームレスなどのより下の立場へ落とされることも覚悟しなければならない。
 “格差社会”の根本的な問題が解消されなければ、そういった人間はやはり捨て置かれたままです。

 つまり、“戦争”の先にある“流動性”のさらにその先にあるものは、けっきょく、「自己責任」でしかありません。

若者は本当に流動性を求めているのか

 多くの人は、世代からくる格差よりも個人の能力による格差の方が“健全”だと思うかもしれません。しかしそれは物差しの単位が変わるだけであり、下に追いやられる人間にとっては健全であるかどうかなど初めから問題はありません。

 では今最下層に追いやられている人間の多くが、「流動性が生まれれば俺は這い上がってやる」と考えるかと言えば、それも怪しいものです。
 長い間、上の人間からの指示どおりに単純な労働をこなすことを続けてきた者が、「這い上がってやる」という“意欲”、というより、自分自身の能力に対する“自信”を持てるか。私の周りの人間や私自身を振り返ってみても、それはほとんど無いと考えます。

 むしろ、下層に追いやられる若年層こそがより強く“安定性”を求めるのではないかと考えられます。何とか食っていける中小企業の正社員や一定以上の収入を確保できているフリーターや派遣労働者は、岩にしがみつくようなギリギリの立場だからこそ、それに対する執着は強いのではないかと。彼らはまだ下のある中間層とは違い、その下は食っていけないレベルのフリーターやホームレスしかありません。
 私自身、長年のフリーターを経て、バイトからの登用という形でなんとか正社員となり約一年半経ちました。正社員といってもほぼ毎日残業でありながら年収300万以下、そもそも会社自体がいつ潰れてもおかしくないところです。それでもなお私は今の地位を手放したくない。学歴も、他人と比べて秀でた能力もない私は、今フリーターになって再び正社員になれる自信はありません。
 そして多くの若者もそうでしょう。「はてな」などのブログ界隈を眺めていると勘違いしそうになりますが、半数以上は大学にいっていおらず、ほとんどの人間は秀でた能力など持っていない、容易に「代替可能」な存在です。“這い上がれる自信”を持てる根拠などないのです。

 また、毎日長時間の単純労働に従事している人間にとって、退勤後や休日の趣味に費やす時間こそが、生きる上で欠かせない糧となります。ゲームをしたり漫画を読んだりコンパに行ったり。そういった他人から見てどうでもいいようなことを幸せと感じ、大切にし、日常を維持します。
 しかしひとたび戦争などの社会の状況をリセットするような事態となったとき、そういった趣味などを続けられる保障はありません。そういった日々のささやかな“幸せ”を手放したくないと、多くの人は考えているのではないでしょうか。

 “若者の右傾化”、というより正確には“保守化”は、そういったことに基づいていると私は考えます。

問題は何か

 “格差社会”と呼ばれるものの何が問題なのか。それは“格差”そのものが問題ではないはず。年収1000万と500万の格差など、ガチガチの共産主義者でもないかぎり問題とはしないはず。年収500万と100万の格差は問題だけれども、格差があること自体はやはり問題ではないはず。それは年収100万という自立して食っていくにはとても苦しく、なおかつその状況に対する保障がほとんどないことこそが問題であるはず。問題は“格差”ではなく“貧困”ということ。
 そこに“流動性”が何の意味を持つのでしょうか。貧困層に追いやられる人間が入れ替わるだけであり、やはり一定の貧困層は存在しつづけることになります。それでは何の解決にもなりません。

 必要なのは最下層でも“希望をもてる生き方”ができる社会保障。その社会保障に必要なコストは富裕層から持ってくることになるので結局“格差”も問題になるわけですが、ともかく“流動性”はそれが確保できた後に求めるべきものではないでしょうか。

左派批判は良いけど、それは的を射ているのだろうか

 赤木さんは左派が若年貧困層を放置していると批判をおこなっていますが、本当にそうなのでしょうか?私は「世界」や「週間金曜日」といったガチガチのサヨク雑誌を読んでいますが、そこでは特に近年、非正規雇用や若年貧困層についてたびたびとりあげられています。そもそも社会保障の充実の必要性は、左派が昔から訴えてきたことではないでしょうか。
 私はサヨクだけど左派の歴史について疎いので自信はありませんが、その左派批判は的を射ているのか疑問を感じます。

 しかしそれ以上に疑問なのは、左派の求める“平和(反戦)”が、本当に若年貧困層の救済と対立することなのかということです。
 赤木さんの言う“戦争”というのは現実的な意味での“戦争”ではなく、流動性を生むために社会をリセットする上で必要な要素としての象徴的なものだということで、それは“隕石落下”でも“宇宙人襲来”でもいいようなものでしょう。なら、それは左派の言うところの現実的な“戦争”とは“違うもの”であり、初めから話がすれ違っています。
 もし赤木さんの言う“戦争”が現実的なものを意味するなら、それは「戦争は格差を解消しない」というツッコミで終わるものです。違うのであれば、左派の“平和(反戦)”と相反するものではありません。

 若年貧困層の救済のため本当に必要なものが“流動性”ではなく“社会保障”であるなら、“平和”や“安定”は必要不可欠なはず。不安定な社会状況でそういった制度を維持するのは困難なことです。

希望は、平和。

 考えてみれば、低学歴・低所得の人間なんて沢山います。大卒は半数以下、一流大学出のエリートはほんの一握りでしかありません。中間層も、今の勤め先が潰れたりクビになったりすれば再就職の困難な人達です。社会保障の充実を必要とする人達は、決して少数派とは言えない、というかむしろ多数派でしょう。
 であるなら、“戦争”などの方法ではなく、選挙の積み重ねという方法でそういった方向に社会を導くことは不可能ではないはず。

 赤木さんが若年貧困層の代弁者であろうとするなら、また、赤木さんに希望を見いだし彼をオピニオンリーダーとするのであれば、“戦争”という脅し文句まで使って求めるものが“流動性”であってはならないのではないでしょうか。

「ゾンビ・マスター」の語り

 ここは元々“遊戯王OCG”について書くところなのですよ!…ということを改めて書かなければならないほど、遊戯王ネタから遠のいていましたね。
 私自身この半年以上、半引退状態でした。なので最近の環境をろくに理解していませんが、リハビリ的に再開したいと思います。

 そんなわけで、最近のカードである「ゾンビ・マスター」を使ったシンプルなデッキから。
 「ゾンマス」は手札コストが必要であり種族限定なものの、貴重な蘇生効果を持っています。その上自身もアンデッド族で攻撃力も1800と十分すぎる性能。今後アンデッド族デッキには必須となるでしょうね。

アンデッド族デッキ

上級2

龍骨鬼 冥府の使者ゴーズ

下級16

ゾンビ・マスター×3 ピラミッド・タートル×3 ゴブリンゾンビ×3
魂を削る死霊 カードガンナー 魔導戦士ブレイカー ダンディライオン 黄泉ガエル
クリッター D.D.アサイラント

魔法16

生者の書−禁断の呪術−×3 生還の宝札×3 打ち出の小槌×2
早すぎた埋葬 サイクロン 大嵐 ハリケーン 地砕き 地割れ 封印の黄金櫃
手札抹殺

 見たまんま「ピラタ」と「ゴブゾン」を「ゾンマス」・「生者」で使い回します。「強欲な壷」・「天使の施し」が禁止となりドローカードが減りましたが、「生還」がその替わりをしてくれるのではないかと。
 「ガンナー」が相性が良いと思ったら、制限になってるのですね。まあ当然の性能だと言えますが。しかし「サイバー・ドラゴン」対策に下級機械族があと2体ほど欲しいところです(「キメラテック・フォートレス・ドラゴン」で奪うため)。

 しかしなんとも面白くないデッキ。IDを再取得できたCGIで試してみたところ、そこそこ戦えますが、面白くない…。

BURRN!の表紙にアンジェラ姐さんが!

 今月の「BURRN!」の表紙はARCH ENEMYのマイケル・アモットとアンジェラ・ゴソウが表紙です。男臭いHR/HMの専門誌の表紙を女性が飾るのはとても稀なので、買っておかないと損しますよ!いやいや、決して回し者では。

 そのARCH ENEMYの新作がレビューされていましたが、かなりの高得点でした。特に伊藤政則さんが95点をつけてベタ褒め。ちょっと楽しみです。巻頭ではアンジェラ姐さんのインタビューがあり、「火垂るの墓」に影響を受けた曲のことなどなかなか興味深い話がありました。

 ホモソーシャル的なHR/HMの世界で第一線でがんばっているアンジェラ姐さんを応援してますよ!

光市事件雑感

kurotokage2007-09-09


 光市事件に関する私の考えはだいたい3ヶ月前のエントリー(http://d.hatena.ne.jp/kurotokage/20070624/1182692975)でほぼ語りつくしたのですが、最近の流れについて思うところがいつくかあるので書いてみます。
 というかあのエントリーがあちこちで紹介されていて有り難く思うのですが、とあるカトリック系教会のサイトで紹介されていたのが一番驚きました。

マスコミとか

 マスコミ批判なんて今更すぎる気がしますが、今日(9月9日)放送された「たかじんのそこまで言って委員会」を少し見ていて、あまりの無責任ぶりにあきれてしまいました(この番組はちょうど昼飯どきにやっていて時々見るのですが、いつもムカついて途中で見るのをやめてしまいます)。
 橋下弁護士に対する批判はすでにあちこちで書かれているので省きますが、その他の司会や出演者にもマスコミとしての自覚があるかどうかとても疑わしいです。

 司会(たかじんともう一人)はしきりに番組へ出て説明することを求めていました(評論家の宮崎哲弥さんも同調)。
 関西ローカルのバラエティ番組に出るのがそんなに大事なんでしょうかね?というのは置いておいて、出演者が皆橋下さんを支持しているなかで、そんなところにのこのこ出て行っても一方的な展開になるのは目に見えています(こういう番組は“声の大きい者勝ち”ですし、都合良く編集される可能性もあります)。なら“戦略”として出ないのは当然。まるで自分たちは公正だとでも言いたげな態度には苛立ちを覚えます。
 そもそも番組でとりあげる以上、それについて詳しく調べることが求められるはずですが、それも出来ていない様子(弁護団には死刑存置派もいるのに、未だに死刑反対のためだと言っていたり)。マスコミとしてやるべきことができていないのに、弁護側にばかり説明を求めるとはどういうことでしょう。それ以前に、安田弁護士にこんな番組へ出る暇はないでしょうが。

 他の出演者も同様。彼らはギャラを貰ってTVで発言する以上相応の責任があるはずですが、まるで自分たちが一般市民と同じ立場であるかのような振る舞いはびっくりするものがあります。

 まあ、一番びっくりするのは、こんな番組での煽りに乗せられて懲戒請求をする人がいることかもしれませんが。

説明責任とか

 今、弁護側の説明責任というものに焦点が当たっているようですが、果たして刑事事件において世間に対する説明責任はどれほどあるのでしょうか?
 例えば、一審・二審の弁護人と現在の弁護団の方針が何故変わったのかを理解してもらうには、事件の詳細を事細かに説明する必要があるでしょう。しかし、特に性犯罪に関するものだと、被害者がどのような被害を受けたかを詳細に報道することは、まさに“セカンドレイプ”だと言えます。さらに被告の性嗜好に内容が及ぶと、プライバシーの侵害という問題もでてきます。

 本来マスコミはこういったことについて慎重になるべきです。それこそが“セカンドレイプ”を緩和するために必要なことの一つだと考えています。しかしこの光市事件では真逆のことがおこっているのではないでしょうか。
 私は、今の弁護団による初めの記者会見も必要なかったのではないかと思っています。被害者の尊厳や被告のプライバシーに関することを、“知りたいだけ”の世間に向けて発表することに何の意味があるのでしょう。そういった情報を知らなければ、私達は司法を監視することができないのでしょうか?

 改めて、“何のための説明責任か”を問う必要があるでしょう。

世間の声とか

 今回のバッシングでよく聞かれたのが“世間の声”とか“庶民感覚”といったものです。いやもう、うんざりしますね。
 懲戒請求がおこってから、web上でいくつもの懲戒請求に対する批判の記事が書かれました。それらは弁護士などの、この件に関しては一般庶民とは言えない人によるものも多くありましたが、私も含め一般庶民によるものも多くありました。彼らにとって、それらはどのように映っているのでしょうね?

 “世間の声”といったものも大切だと思います。近代の国家観から言えば、そういったものが無視されるべきではないでしょう。しかし、数学の証明問題で「世間の声によれば」とか書くでしょうか?スピード違反で捕まったとき「庶民感覚で考えれば」とか言うでしょうか?
 そういった曖昧模糊なものは、あくまで配慮するべき要素の一つであり、直接何かを決定する上での根拠としては弱い、まして司法の場においては超弱すぎるとしか言えません。

 結局単なる言い訳でしかないのだろうなと感じました。自分たちは一般庶民だから、マスコミの情報のみを頼りに感情的にものを言ってもいいのだ、という。本来逆ではないかと思うのですけどね。自分たちが“世間”を形成する一員なのだから、マスコミに煽られず冷静にならなければならないと。タマゴが先かニワトリが先か。

 “世間の声”などは、一部の権力を持つ者に向けて使われるべきものでしょう。しかし今は弱い立場にある被告を弁護する弁護側に向けられている。これは、多数派という強者が多数派であることに胡座をかくような、傲慢なこととしか思えません。
 ようは「俺の主張の正当性は多数派であることに裏付けられている」ということですよね。全く下らないですね。

はてなスター復活させました

はてなスター日記「 はてなスターの画像が自由に変更できるようになりました」(はてなスター日記)

 ということで、やっとと言うかようやくと言うか(同じだ)“はてなスター”の画像が自由にカスタマイズできるようになったので、はてなスターを復活させます。
 画像サイズは自由ということでそれは有り難いのですが、てっきり11×11pix限定だと思いそのサイズで色々作っていた私の立場は一体(知らんがな)!まぁ、私はドッターじゃないので11×11pixではかなり限界を感じてたのですが。

  
 とりあえずやりたかった「女神転生」シリーズの悪魔アイコン。「外道クロトカゲが1体出た!」
 皆さんがクリックしてくれるたびに仲魔が1体召喚されます。

    
 小さいものだからできるだけシンプルでわかりやすいものが良いだろうということでそんなのをいくつか。私のブログで使うこと前提なのでモノクロです。

   
 最近なぜか遊戯王が流行っているのでやってしまいました。カードをスキャンしたものなのでモアレが見えてしまってます。こうしてみると星がわかりづらいですね。